1月1日  「恵みにめざめて」 コリントの信徒への手紙T 151219節 

12 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。

13 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。

14 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。

15 更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証をしたことになるからです。

16 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。

17 そして、キリストが復活しなかったなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。

18 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。

19 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。

 

1年の初めの日を主日として迎えられる幸いを得た。主日とは主イエス・キリスト復活された日を信じる群れが覚え、生きた唯一の神の前に一つとなって礼拝する日である。復活信仰の証人として歩むとは、このことへの確信に生きることである。神が私達に求めておられる姿はここにある。事実教会を生み出される主の弟子達の歩みにも、主の復活の証人を新たに立てることを使徒言行録1章は明確に記す。こうして立てられて、私達は証人とされている。

パウロの属したパリサイ派は復活を信じていた。しかしそれが自分のこととなっていなかったゆえに証人となれなかった。パウロはキリストの証人として、復活について力を込めて書き記す。コリントの教会の問題は、復活が自分自身のものであると確信できるかにかかっていた。主の復活の証人として真に生き、取り戻せるか。これは私達の問題でもある。復活の史的有無ではなく、神が主イエスにおいて死を命に至らせられたことを信じるかどうかが問われている。真の人として主イエスが死を歩まれ、葬られ蘇られたことによって、この身にも復活が起こるのである。私達はこのことを毎週使徒信条で告白している。

新たな年、新たな一日を与えられる恵みを示す主の十字架と復活である。主の復活に生かされ、主の日に御言葉を得て歩むことが赦されている。証人として歩んだ先達は、この朽ちない恵みにめざめ、輝かせて歩んだ。教会に集う私達にはこの先達を通しても主の復活に命の源を置く歩みが証しとなって与えられている。新たな年も、復活の命の希望によって歩んで行きたい。

 

 

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