9月4日 「いつも変わることなく恵を伝えるもの」
コリントの信徒への手紙T 11章17-26節
17 次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。
18 まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。
19 あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。
20 それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。
21 なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。
22 あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。
23 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、
24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
25 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
教会の生命線は真の礼拝を捧げることである。また、その礼拝の中心は聖餐である。聖餐式と共に私達は毎週、神の御言葉を見えぬ聖餐として預かっている。パウロは今朝の箇所で礼拝の具体的な歩み・聖餐について表している。使徒行伝2章には弟子達が主イエスとの食事を思い出しながら互いにパンを裂き、熱心に神を賛美したので民衆全体から好意を得たという記事がある。パウロはこのような初代教会の姿を真似ろと言っているのではない。空腹の者がいれば酔っている者もいるというコリント教会の現状に対し、これはキリストに結ばれた主の食事ではなく、私的な食事に成り下がってしまっていると指摘している。主の食事は単なる儀式や宴会ではなく、主の輝きが示されなくてはならない。信仰はキリストと共に生きる事である。しかしキリストの交わりの中にあって始めて成り立ち、教会はこの主イエスの交わりへと招かれた者の群れである。この交わりの中心こそ主の食事・聖餐がある。だからこそ、私達は毎週の説教による御言葉を命の糧として力にできる。パウロは「私自身が主から受けたものです。」とそれが主の御心であることを示す。パウロ自身は直接、主イエスの最後の晩餐に集った訳ではないが、主を伝えるという事の中で自分に起こった出来事として受け取ったのである。主イエスが聖餐を「私を記念して」行いなさいというのはこの意味である。そして、「告げ知らせよ」という「主の死」とは主の十字架に輝く「神は独子を賜るほどに、この世を愛された」事である。この変わらない主の食事に多くの人を招き、主の愛を伝えていく事こそ私達の本来の姿である。主の聖餐を受け、今週もその歩みへと踏み出したい。