9月18日 「聖霊によって与えられる姿」コリントの信徒への手紙T 12章T-11節
1
兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。
2
あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。
3
ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
4
賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
5
務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。
7
一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
8
ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、
9
ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、
10
ある人には奇跡を行う力、ある人には予言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。
11
これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。
「我は聖霊を信ず」使徒信条に記されるこの告白の言葉は、私達に神の深き恵みを示す。即ち真の聖霊に立てられる源を持つときに教会は輝き続ける。その聖霊の力を見出す言葉が今朝の聖書の箇所に明白に示される。それは「イエスは主である」との言を導くか否かである。
信仰者はイエス・キリストによって救われ生きる故に真の聖霊を持ち告白が許されるのである。パウロは、11章において礼拝の中心の聖餐について示した。その主の食卓は誰が整え導くか。もちろん神が守られ創られ、私達がそこに導かれていく故に真の礼拝が守られ、等しく恵みが輝きつづけるのである。しかし、それは真の礼拝を持つ時、主イエスが第一にせよと教えられた『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、主なるあなたの神を愛せよ』との姿をもち礼拝を捧る事である。私達の礼拝の姿は力・恵みを与えられたいが第一となっていないだろうか?信仰を持つ者は神の力、霊の力により信じる者の姿に変えられたお互いである。その姿を時を越えて示されているのがキリスト者の集い教会である。どのような歩みの中でも神の光を見出し感謝を歩めるのは、神を信じることが先行するのである。その前提に生かされて初めて、神の賜物(カリスマ)が与えられるのは神が働かれた事実があることを知る。神の働きによって神の働く器とされるのが霊的な賜物を受けた者の真の姿である。その事を確信する故に一人一人に霊の働きが現れるのは「全体の益のためです」とパウロは示す。自分ではなく、主を主語とする人生を即ち、神に身も心も捧げ歩みつづけ時、真の喜びを見出し、聖霊を受けて輝く命、神の与えられた賜物を生かし歩むことができるのである。聖霊によって与えられる姿を今朝もう一度共に新にしたい。