9月11日「その光の中に生きるゆえに」 コリントの信徒への手紙T 1127-34節  

 

27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。

28 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。

29 主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。

30 そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。

31 わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。

32 裁かれるとすれば、それは、わたしが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。

33 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。

34 空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。

 

イエスの十字架の死と復活を信じ告白して洗礼を受けてキリスト者になった我々は、礼拝の中心である聖礼典のもう一つ聖餐を正しく理解して受け止めているだろうか。今朝の聖書の箇所でパウロは主の晩餐である聖餐に与るキリスト者の姿を明らかにしている。

「ふさわしくないままで」と戒めているが、それでは「ふさわしい」とはどういうことか。ジョン・ウエスレーは「聖餐は全生涯を通じて絶えざる回心を促す神の定めである」と表現している。即ち、洗礼は一回きりだが、その後の神の恵みを知らされるのは聖餐のみであり、キリスト者は教会の礼拝を通して、み言葉による糧とパンと杯による聖餐を受けて信仰の更新と成長が許される。聖餐を通じて、即ち、キリストの体と血とによって救われ生かされている自分を確認し、その恵みに感謝し新たな力を与えられる。「自分をよく確かめたうえで」と言っているのは、ありのままの自分を主に差出し罪を告白する、そのとき主が自分の中に生きていることを確信させられる。

復活の主が弟子たちの中に訪れ「あなたがたに平和があるように」と告げられ、弟子たちは最後の晩餐で示された主イエスの愛と救いを初めて深く受取め福音の伝道に押出された。その時代から聖餐は教会の礼拝の中心として守られて来た。

信仰に至った道は様々であっても、主イエスの十字架我が為なりとの一点の光の中で、教会の交わりを通し深められた信じる者の群れが真の光を共に放つ姿が即ち伝道となる。その意味で聖餐と伝道は恵の絆で結ばれているのである。伝道の秋、聖餐を正しく受け止めることにより伝道の姿が溢れ出るよう礼拝を中心とした確かな信仰の歩みを進めたい。

 

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