8月7日 「すべてを貫く愛を持って」 コリントの信徒への手紙 T 10章23節ー11章1節
23
「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。24
だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。25
市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。26
「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。27
あなた方が、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。28
しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。29
わたしがこの場合、「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。30
わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。31
だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。32
ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。33
わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。11
章1
わたしがキリストに倣う者であるように、あなた方もこのわたしに倣う者となりなさい。
全ての事が許されている、これは自由という事である。しかし、真の自由ということは見出すことが難しい。一般的にも自由には責任と義務が伴うと教えられるが、この事が逆にそれらを人に押し付け、自由を奪う事となる。
聖書においての自由は真の神の前での自由である。それは神よりの恵みへの感謝から生まれる。これは自分の良心から出るものではなく、全てのものが主のものであるという事から出るのであり、それは自分のためだけではなく、主のものである他人を愛し、その利益をも追求する事に繋がるのである。これが真の自由な姿である。
パウロはこの箇所で偶像・食物に関する問題への結論を示す。それは何でも食しなさいという事と出されたものが偶像に供えられたものであると言うのならその人のためにそれを食べてはならないという事である。これは矛盾しているように思えるが、それは全てが主のものであり、その人もまた主が愛されたものであるという事において可能となる。この矛盾は十字架の矛盾の苦しみとして主イエスが既に打ち勝たれたものである。私たちはこの主イエスの苦しみを覚えて、新たな命の歩みを踏み出さなくてはならない。キリスト者の二つの原則は自分が神の栄光を表わすために創られた事を知る事と他者に一番良いものであるキリストによる救いを示すことである。これらは全てを貫く神の愛によってのみ理解され、それはイエス・キリストに心より倣うことである。神に感謝して真の自由を歩んで生きたい。
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