8月28日 「現代社会とキリスト教」 ルカによる福音書15章11節〜24節
東方敬信牧師
11
また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。」12
弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。13
何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち,そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。14
何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。15
それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。16
彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。17
そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。18
ここを立ち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。19
もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」と。』20
そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。21
息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』22
しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。23
それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。24
この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
放蕩息子の姿は何を意味するのだろうか。神を捨てることも、神に賭けることもできるのが人間の自由だと遠藤周作は言う。弟息子は捨てる自由を行使したのである。
弟息子に対して父親は止めることをしなかった。神様と私たちの関係はこのようなものである。上から抑圧してわたしたちが家出をしたくなるような状況を作るのではなく、自由を与えた上でわたしすなわち神を認めるか、わたしたちに自由な愛をもって臨まれるのが神様である。
弟息子はそんな父親を誤解していた。神を捨てる自由を行使した結果、行き詰ってしまった。信頼できるもののない世界にあって、一人渇きを覚えたのである。
どん底で弟息子は我に返り立ち帰った。とことん破れを経験する中で立ち帰る。人生に一度「参った」という経験をした時、新しく神に立ち帰り祈るのである。
2000年の間、教会は豊かなクリスチャニティーを感じさせる人間を生み出してきた。それは破れの中で立ち帰り祈って、神の憐れみを受けた者の姿である。そこから出てくる感謝と喜びの生活を生きることである。
心に悔い改めを持った途端に走り寄った父。公然と自由な者とされた弟息子。それは父の息子への甘やかしではない。十字架の犠牲となられた主イエスが語られたこの物語を通して、甘えではなく全ての人が公然と神の全権大使となるように課せられている恵みを知るのである。ここにクリスチャニティーがあるのである。