8月21日 「真実に隣人となり、兄弟となる源」 コリントの信徒への手紙T 11章2-16節
米田芳生牧師
2
あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。
3
ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。4
男はだれでも祈ったり、予言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。5
女はだれでも祈ったり、予言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。6
女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。7
男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。8
というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、9
男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。10
だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。11
いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。12
それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。13
自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。14
、15 男は長い髪が恥じであるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。16
この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。
コリントの信徒への手紙Tの
8章〜10章には、様々な問題を通して偶像礼拝への戒めが取り上げられている。それは信仰の中心の礼拝を示す為であった。偶像を退け、真の神である方を見出す時に初めて真の礼拝が歩める。11章からは、その真の神を源とした上で真の礼拝の歩みが示されていく。2
節でパウロはコリントの教会に対し神の言葉が第一であると示す。パウロの時代には神の言葉を伝える方法は口伝であった。しかし、あるものを口伝により引き渡す事が出来た故に御言葉を手に持つ私達と変わらず、神の恵みを伝えた。その伝え渡されたものこそ、主イエス・キリストその方である。その方を伝え渡すゆえに信仰が生れ続けていったのである。コリントの教会には旧約の神の言葉を持ちつつも迷いがあった。パウロは、唯一の神を崇める礼拝を、唯一の創造の神に繋がることを示している。それ故創造の秩序を示し、全てが神に救われた罪人であることを示す。その方の前での礼拝ゆえに男性も女性も頭なる方に繋がり、神に創られた真の存在として真実に隣人となり兄弟となり一つなるのである。頭なるキリストとは、なぜ頭なのか。キリストはご自身をむなしくされ、十字架に歩み、私達を愛し抜いてくださり、天の父に対して従順な方である故に頭なのである。聖書の示す頭の姿はいつも愛し、支え、捧げる頭に他ならない。今十字架の下に生きる者が見出さなければならないものは、主イエス・キリストの姿である。その意味で真の礼拝の姿は私はあなたに創られた者です、救われた者ですと心から告白し讃美することである。神の真理を礼拝のたびごとに新たにし、御言葉に従い、喜びを持って歩まされたい。
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