8月14日 共生への祈り」  ルカによる福音書11章5-13節

                            東方敬信牧師

5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き。次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。

6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』

7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』

8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。

9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。

12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。

13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

本日の礼拝は全体修養会の開会礼拝である。修養とは、退くという意味があり、修養会とは、御言葉聞くために一歩退き、御言葉により二歩前進するためにある。祈りとは、自分の魂を未来に向かって投げ出す活発な精神を示し、本日の修養会は、聖書にある真の祈りに焦点を当てる学びの時をもつものである。

 本日の聖書の箇所で、主イエスは主の祈りを教えられた直後に、祈らざるを得ない状況を教えられている。譬え話で真夜中に友人が訪ねてくるのは非常に象徴的で、民族間対立など現代の様々な闇をあらわしている。この世は教会の友人である。その友人のために祈る。一食分の食糧さえないユダヤの貧しい農村の姿は、物質的な貧しさのみでなく、豊かになった現代社会の精神的貧しさをもあらわしているのである。

 そして主人公のように自分自身に何も無いから祈り求める姿が主イエスの祈りのポイントであり、祈りのない生活で他の人に何もできない無力感から光を求めることである。また主イエスの譬えにあるもう一人の友人は神様のことであるが、神様は友人だからという甘えの人間生活による祈りを断り、執拗に求める祈り、なりふり構わず全身全霊で体当たりするような信仰を求められている。

 神様は、求めることを私達に求めておられ、神様は求めに応じて私達に聖霊による内なる力を与えられる。自分の無力を感じ、アッシジのフランチェスコの平和の祈りにある、小さくとも神の愛を映し出せるようにとの祈りを受け継いでゆきたい。

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