7月31日 「祈りの精神」 詩編23篇1−6節、マタイによる福音書6章5−8節
東方敬信牧師
詩編23篇
1
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。2
主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い
3
魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
4
死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。
わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。
6
命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。
マタイによる福音書
6章5
「祈るときにも、あなたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。6
だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。7
また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。8
彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなた方に必要なものをご存じなのだ。
「祈りのないキリスト教の生活はない。祈り、それは生ける神と向き合うことだが、私達はそのような時を充分に持っているか!」とイギリスの神学者フォーサイスは記している。
「神と向き合う」とはどういうことか。日本の信仰の指導者の一人である赤沢牧師は説教ができなくなった時、教会を離れて一人で祈りの生活に入った。自分の目の前に座布団を置き、そこにイエスが座ったと思われるまで祈り続け、イエスと向き合うことが出来たと確信を得て伝道を再開されたという。キリスト者は、あたかもイエスの目の前でイエスのみ言葉に従って真剣に人生の歩みを進めようとする者であり、それを支えるのが祈りであり、神と向き合うことである。
祈りは神のみ前に自分自身を注ぎだすことである。父なる神とイエスの十字架で赦され、子とされた者として、神の意思に従う決心をして神のみ前に心を注ぎだして、神の愛のご支配のもとに自分をゆだねる。「御心をなして下さい」という祈りである。「私は御前に心からの願いを注ぎだしました」ハンナの祈りである。詩編
62篇には「どのようなときにも神に信頼し御前に心を注ぎ出せ」と語っている。エミール・ブルンナーは「森の中で迷子になっている子供たちに、遠くから父なる神の“オーイ!”という声が聞えてくる。その声に”私はここにいますよ“と応えるのが祈りなのだ」と言っている。イエス・キリストにおいて私達に向き合ってくださっている神に全身全霊を持って応答し、近づいていく、そのような生き方をイエスは主の祈りで教えられた。主の祈りを祈りつつ堂々と存在感を持って歩んで行きたい。
ホームページに戻る
み言葉に聞くに戻る