7月3日 「生きぬく中で」 コリントの信徒への手紙T 9章24-27節

24 あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。

25 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。

26 だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。

27 むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分のほうが失格者になってしまわないためです。

「福音の為なら私は何でもする。」と聴いた時、それはパウロだからという姿勢で聴いてしまっては、単なる綺麗事になる。この場合「私が福音に共に与る者となるためです。」という事を共に受け取られなければならない。信仰生活を歩む事とは、信仰を守り抜くという事である。昔も今もそれは変わりなくキリスト者の姿である。パウロは「あなた方も賞を得るように走りなさい」と語るのは、人々との競争に勝ち抜けという事ではない。それは、私達が虚しく疲れ果ててしまう事がないようにと主が与えてくださった揺ぎ無い目標を見出し人生を生き抜く事である。しかし、人間はこの目標を福音(良き訪れ)として受けることが出来ず、自分の望む通りに歩む姿が自由と考える。しかし、その歩みこそ今を無駄にしている。私達の向かうべき目標は、他でもなく主イエスの御国以外にない。それ故人生を死で終わりでなく御国を目指し走り続ける力が与えられる。

 パウロはこの賞を得るという事を教会の基である主イエス・キリストの福音を同じ姿勢で受け止めること、主イエスとの真の交わり・コイノニアに招き入れられる中ではっきりと目標を見出す歩みが守られると確信する。神が与える救いは、自分を第一にし、人間の考える幸せやご利益を得る事ではなく、私達が何者で何の為に生かされているかを明確に示される事である。自分が神を喜ばせるために生きている。それは目標を明確に持ち歩む中で生きて確かめることが出来るのである。主イエスの中で生きぬく信仰生活をしっかりと歩まされたい。



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