7月17日 「愛の深いゆえに」 コリントの信徒への手紙T 10章14節ー22節

14  わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。

15 わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。

16 わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。

17 パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。

18 肉によるイスラエルの人々のことを考えて見なさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。

19 わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。っそれとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。

20 いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなた方に悪霊の仲間になってほしくありません。

21 主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。

22 それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。

 

 偶像礼拝は神なきものにより頼む間違いの姿である。コリント書では、何度も何度もこれを取り上げている。パウロは14節で偶像礼拝をさけなさいと信仰の歩みの鍵を示している。真の道を見失い、罪の支配、罪人の姿を歩んでしまう偶像礼拝を避け、真の歩みをすることを教えている。十戒に示されている契約は神との契約、正しい姿を表わしている。しかし、私達人間はより頼むもののない不安の中で偶像を作りあげる事もイスラエルの民の姿を通して示される。見ないで信じることが出来ないのである。

 13節では、神は真実な方ですと神のなさること以外に真の正しさはないと先の聖日に示しを受けた。信仰を持って歩むとは、信じたからこそわかる歩みであり、見えない事実と出会い続ける歩みの中でも真実な神と共に生きるゆえに感謝と喜びをもって歩む事が許されるのである。神を神として礼拝する歩みを続ける為にパウロは16節から杯とパン聖餐の姿を用いて示す。主イエス・キリストの血と肉にあずかること、キリストの体と一つとなって生きること、礼拝中心の信仰生活をおくることからキリストとの交わりの中に生かされていることを確信するのである。まず神は主イエスの十字架に現されている様に私達を愛し、信じ、待っていてくださるのである。主の食卓に預かる私達は、神からの深い愛がいつも輝いている故に強く歩みだす事が出来るのである。まず主イエスの十字架を見上げ、神の香り、平安が神より託され生かされるわが身を新たにしたい

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