6月5日 「信仰のやすらぎを持つ喜び」 コリントの信徒への手紙T 8章7〜13節

米田芳生牧師

                         

 

7 しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に,それが偶像に供えられた肉だと言うことが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。

8 私たちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。

9 ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。

10 知識を持っているあなたがたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。

11 そうなると、あなたがたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。

12 このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。

13 それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。

 本日の聖書の箇所は、信仰を持つ者が、全ての被造物に対してどのように接するかについての、パウロの考えが示されている。つまり、パウロのいう弱い人々の為にも主イエスは死んでくださったのであり、信仰者の群れである教会がキリストの死を通して本当の愛の交わりに生きなければ、キリストを知らない人々に主の福音を示すことなどできないと考えるのである。

移り変わる自分に対して、ゆるぎない土台である唯一の神に知られ、心も体も捕らえられていることを確信して生きるのが、キリスト者の信仰である。悔い改めて福音を信ずることにより与えられる信仰によって生きるのが本当の自由の姿であり、それを人間のエゴで自分の基準で立つことにより、神に清い者と映ると勘違いしてしまう危険性がある。

唯一の神を信じ、神に愛され、知られ、捕らわれている存在である我が身に歩まなければ、結局本当の安らぎをえることはできない。神の愛によって造り上げられる姿である教会に集い、命ある限り証しすることを我が身に約束された喜びにより、信仰をもう一度新たにし、信仰の安らぎを持って歩み続けたい。

私達はキリストのために生かされ、キリストの栄光を表す力をこの身に与えられている。なすべき事は既に示されている。ゆるぎない喜びを持ち、「神ともに居ます」恵みを確信し、与えられた場所に力強く帰って行き、また週の初めにここに戻り、みことばを共に与かりたい。

 

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