6月19日 「福音を受ける深さ」 コリントの信徒への手紙T 9章13-23節
米田芳生牧師
13
あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。14
同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。15
しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです・・・・・。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。16
もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。17
自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。18
では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。19
わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。20
ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。21
また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。22
弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。23
福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
信仰を持つと言うことは、新しい考えを持つことではなく救われるということであり、
救われた者ゆえに信仰を持つのである。この信仰を持つ姿には決断が要求される。それは、私の主(あるじ)は主イエス・キリストだけと生き抜く決断である。決断をした時に、既に自分ではない力を与えられているからこそ主に従う歩みが導かれるのである。
パウロは今朝の聖書の箇所で使徒の権利というものを通して、福音の力に生きる者の姿を自らの歩みを通して語る。種をまく時収穫を求めて種をまくのであるが、福音の種をまく時には、収穫が目的ではなく、真の報酬は多くの人々に福音を宣べ伝えることの喜び、多くの人々を信仰に導く喜びであるというのである。このことは
16節で「そうせずにはいられない」と言っているようにパウロの伝道姿勢の根本となっているものである。福音を愛に置き換えて見るとき、真の愛は、見返りを求めず、愛することの喜びを知る。それは、全ての人々を愛しぬかれた主イエスの歩み、十字架の歩みの姿がそれを示す。パウロは同じ節で「福音を告げ知らせないなら、不幸なのです」と語る。それは、主はイエス・キリストであること、生きて福音を受けることがどれほど尊く、すばらしいことであるかを身をもって生きる故の現われである。主に生きる者として揺ぎ無い土台を持ち、キリストの苦しみをも恵みとされるとき、福音を受ける深さを私たちは見出すことが出来る。
み言葉を受けて歩む時、主の道・真の道が私達の平安となって訪れるのである。
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