6月12日 「主イエスを見た者の歩み」 コリントの信徒への手紙T 9章1-12節
1
わたしは自由なものではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。2
他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。3
わたしを批判する人たちは、こう弁明します。4
わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。5
わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。6
あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。7
そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ブドウ畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。8
わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。9
モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。10
それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。11
わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。12
他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。
今日の御言葉は、
8章を受けてのものである。「私は自由なものではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか」。 造り上げる愛の言葉としてこの言葉を受けるには、「主イエスを見た」という姿が必要不可欠である。主イエスを見たゆえに使徒であり自由であるとパウロは言う。知識として知るのではなく出会い見たというのは、信じることによって成る。信じなければ知識で止まり、自分を作り上げる力とはならない。罪「が」自分を持つ罪の奴隷であるからこそ、罪人であると告白できる。そこに赦しが与えられるから信じることが出来る。そういう自分がいつの間にか罪から解放され主イエスのものとなったから、僕として生きることが出来るようになったのである。
主イエスを見た者として歩むパウロは、世の指導者とは異なり遣わされた者として仕える姿勢を一貫していた。パウロは、キリストの福音を妨げないため歩んだ結果、主イエスを見た者として委ねる姿のみを伝える。私達は自らの力で伝えるのではない。力が福音そのものにこそあるゆえに、パウロは福音の尊さに生かされることにこそ、報酬に値する価値があると言うのである。これが使徒として生きた証拠である。
私達は教会で神の言葉を通して生きた証拠を新たにするのである。私達は主イエスを見たのか、復活の姿を自分の救いと信じているのか、新たにされて歩みたい。
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