5月29日    「共に生きるために」  ルカによる福音書10章25-35節

                       東方敬信牧師

25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、

27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命がえられる。」

29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とは誰ですか」と言った。

30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたままで立ち去った。

31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、

34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』」

現代日本の行動原理に欲・徳・楽が挙げられる。しかし、ここから生まれる物は表面的な虚しい物である。私達は、より深い真理に出会う事が必要である。

当時の律法学者も経済的には恵まれていた。しかし、主イエスに「何をしたら永遠の命を受け継ぐ事が出来るか」と問わざるを得なかった。主イエスはこれに対し「律法には何とあるか」と答えを一人一人が探すよう、その答えを楽には得させない。律法学者は模範解答を答えようとするが、肝心であるその事と常に向き合う事の大切さを見逃す。律法学者はこれらを表面的にはよく知ってはいたが、深い真理とは出会えていなかった。そこで「では隣人とは誰をいうのか」と他人事のように聞く。主イエスはこの姿勢について「よきサマリア人」の譬えを用いて教えられた。それはサマリア人の他人の事を自分の内臓が痛む程に思う姿によって示される。主イエスはまさにこのサマリア人のような方であった。この事は楽な事でなく、私達にとっては異質な事である。

しかし、主イエスは、ご自分とは異質な罪人である私達をその血で贖ってくださった。これにあずかり、私達もはじめて他者と共に生きる事が出来る。サマリア人は怪我人を宿屋まで運んだ。この宿屋とは神を指す。私達には応急処置しか出来ない。傷を治すことが出来るのは神である。しかし、ここに小さいが私達の愛の実践の場が与えられている。これは感謝である。この愛を実践していきたい。

 

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