4月3日「生かされた源を見つめて」 コリントの信徒への手紙T 717-24   

 

17  おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。

18  割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。

19  割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。

20  おのおの召された時の身分にとどまっていなさい。

21 召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。

22 というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされたものだからです。童謡に,主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。

23 あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。

24 兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。

 

 本日の聖書の箇所には、「召し」という言葉が数多くでてくるが、教会(=エクレシア)という言葉はギリシャ語で「召されて集められた者」という意味であり、キリストの体として教会に集う者として忘れてはならない大切な姿である。

 私達人間は、あたかも自分の努力のみで生きているように誤解しがちであるが、神に召されることにより神の愛がどれほど深いものであるかを認識して、主から分け与えられた分を信じて自分の土台とすることにより、信仰をもち歩む者の喜び、力強い姿を示すことができるのである。

 ところで本日の聖書の箇所でパウロのいう「奴隷」と「自由の人」のあまりに違う姿を私達は理解している。しかし最後に裁くのは神であり、主イエスの十字架と復活によるほど、神が愛し本当にありのままで生きる自由を与えられたからには、力による支配や絶望で終わることのないということを私達は確信し、神の前で神の目に自分の歩みがどのように映るかだけを考えて生きることが大切である。

 私達は主イエスという生きた姿をもち、自分の生かされた源を見出すとき、この身に与っている恵みが満ち溢れてくるのである。そして神に召し出され、一人一人に主の与えられた分を確信し、神に必要とされる者として、今生かされている意味・喜びをみ言葉よりしっかりと見出し、歩み出してゆきたい。

 

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