4月24日「信頼の世界の誕生」 マタイによる福音書1章18-25節
東方敬信牧師
18
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかとなった。
19
夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
20
このように考えていると、主の天使が夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われたていたことが実現するためであった。
23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
マタイによる福音書を書いたマタイは、その最初にイエス・キリストの系図を載せているが、この系図とは天地創造の「創造」と同じ言葉である。即ち、マタイは処女降誕の物語で「新しい出来事が起こった、イエス・キリストにより、古いものは過ぎ去り新しい信頼の世界が創造された」と言っているのである。
許婚のマリアが身重であることを知ったヨセフは、この突然の破局に思い悩み、マリアと縁を切る決心をした。ヨセフを最も悩ませたのは、恐らく疑い、不信感であったであろう。疑い、不信感、それは人間としての命の消滅の危機である。人間は生物学的な命だけでなく、愛したり、共に生きたり信頼したり、そうした形で人格的な命を与えられている存在である。そして、人間が人間らしさを失う時、言換えれば、信頼し愛し合うことが困難になった時、その人間としての命、人格的命を失う。
正しい人ヨセフが人間として最善と考える決断をしようとした時、神からの語りかけがあった。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と。
人間の世界、即ち水平の世界が行き詰まりになった時、神からの働きかけ、即ち垂直次元が開かれてきた。
更に、その名をインマヌエル「神共にいます」と名付けなさい、とマタイは記している。人間の悲しみ、挫折、苦しみ、喜び、すべての時を共にいてくださる神であると告げている。ヨセフはこの神の大きな信頼の中でマリアを受け入れた。そして、イエス・キリストは十字架の痛みを負いながら最後まで神の愛、絶対的な愛を示し続け、よみがえりの出来事によって「神共にいます」新しい信頼の世界が始まったのだ、とマタイはここで語っている。
教会の礼拝はこの出来事が起こるところである。礼拝を通して新たな出来事が与えられ、新たな決意を持って歩んで行きたい。