3月6日「消えない事実」 コリントの信徒への手紙T
6章12-20節
12
「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、私は何事にも支配されはしない。13
食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。14
神は、主を復活させ、又、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。15
あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。16
娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。17
しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。18
みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。19
知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。20
Bあなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
当時のコリントは、一般の人々に非常に厳しい見方をされ、グノーシス(霊肉二元論)により魂は救われているから体は何をしても良いという風潮が蔓延っているような地域であった。コリントの教会は日々このような風潮との戦いがあった。日本でのキリスト者も、日々の家庭・職場でキリスト者として生きる難しさを痛感し、キリスト者として歩むことのできない落胆に陥ることがある。このような落胆に対して、輝きを取り戻すための場所が、主に呼び集められた群「エクレシア」(教会)であり、教会に集うことにより、励まされ・力強められ・光を与えられることにより、新たに歩み出すことができるのである。
信仰で重要なことは、主に捕らえられている我が身を確信することであり、聖霊が宿ってくださる神殿である我が身により、隣人に対して神の姿を伝える使命である。消えることのない事実である主の十字架・復活が証しされることにより、永遠に揺るぐことのない今生かされる意味が与えられ、神の栄光を現すことができるのである。
私達の立つべき歩みは、神に代価を払って買い取られ、神の栄光を現すための我が身を確信し、世界を本当の光の道へと導くことである。そして、この本当の使命を知る者の群が教会である。私達は、神に捕らえられている我が身により、この素晴らしい喜びの香りをしっかりと証ししてゆきたい。
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