3月27日「復活の主イエスの方へ」  ヨハネによる福音書2011-18節   

11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、

12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。

13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」というと、マリアは言った。「私の主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分りません。」

14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分らなかった。

15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。」マリアは、園丁だと思っていった。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」

16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなっさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、又、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」

18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ言って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

マグダラのマリアは空っぽの墓に天使を見て驚き、主イエスがどこに取り去られたのか分らずただ泣いているばかりであった。イエスが「何処に」という心配に捉われ、探している主イエスがすぐ側に居ることを気付かなかった。しかし、「マリア」とイエスが固有名で呼びかけると、一瞬にして「ラボニ」と振り向き、イエスにすがりついた。

教会の姿は、この主イエスの復活の出来事によく示されている。主イエスによって一人一人が声をかけられ、神に呼び集められた群れであり又、キリスト者は、自分が神を捉えたのではなく、神が自分を捉え、神に呼び集められ信仰を与えられた者である。復活の日の主イエスが「マリア」と呼びかけられたと同様に、神が一対一で固有名で呼びかけてくださっている出来事は今も私たちに与えられている。それにも拘らず、困難や苦しみにある時、主イエスよ何処に、神よ何処に、と自分が納得出来る範囲で神を捜し求めている自分の姿を見る。

イエスがマリアに「わたしにすがりつくのはよしなさい…」と言われたのは、十字架の苦しみと復活により主イエスが私達一人一人に神の愛を買い戻され、「神は愛なり」との真理を教え、見える姿ではなく、もっと強い深い霊的な存在として、永遠に「神共にいます」という姿で共に歩むことを示されたものである。

マリアは復活の最初の証人として、その出来事と喜びを伝えるため弟子たちの許に走っていった。重要なことは、この復活の主イエスの方へ呼ばれていることを知らされ、マリアのようにまず飛び込むこと、そのことにより、自ずと変えられて人智を超えた主の復活を確信し、本当に喜び勇んで歩みを進めることである。

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