2月27日「信仰を生きる」  マルコによる福音書914-29

               東方敬信牧師 

 

14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群集に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。

15 群集は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。

16 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、

17 群集の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。

18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」

19 イエスはお答えになった。「何と信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。

21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。

22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。

23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

25 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。子の子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」

26 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。

27 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。

28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。

29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

 

イエスが三人の弟子達と山から下ってくると、残された弟子達が悪霊に取りつかれた子を癒すことが出来ないで大変な騒ぎが起こっていた。イエスは「その子をわたしのところに連れて来なさい」と言い、その子はイエスの前に連れて来られた。その子の父親がイエスに、「おできになるなら、憐れんでお助けください」というと、イエスは「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」とお答えになり、父親はすぐに「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫んだ。そして、癒しの出来事が起こった。信仰とはイエスキリストに向き合うことであり、イエスは父親に「もしできれば」ではなく、100%主イエスに向き合うことをお求めになり、父親はそれに応えたのである。

信仰告白で「我は信ず」と告白するが、2000年前の「なんと信仰のない時代なのか」とのイエスの嘆きは、今の我々にも問いかけられている。文明の進化した現代においても、人間の能力、努力、善意だけでは解決できない様々な問題がある。信仰とは主イエスと向き合い対話すること、主イエスを通して神の愛としっかり向き合うこと、即ち真剣に祈る生活であり、このことによって弱きを強むる力を得るのでる。一方、信仰とは絶えず不信仰との戦いでもある。そして、父親のように「不信仰なわたしを助けてください」と神に叫び求める祈りの生活である。教会での礼拝は、新たにされ、この不信仰との戦いに力を得るためである。

祈りにより主イエスと出会い、祈りの生活を続ける中で私達は新たな願いを求め、新たな希望を持たせられ、新たな決意に導かれて神の国のために用いられるようになる。このような歩みを少しずつ身に付けて行きたい。

ームページに戻る   み言葉に聞くに戻る