2月20日「『教会の不思議さと喜びの源』コリントの信徒への手紙T
6章1−11節
1
あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。2
あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。3
わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。4
それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。5
あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。6
兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。7
そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ,むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。8
それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。9
正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、10
泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。11
あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。
神学校での学びの時期にキャラバン伝道での経験を通して、困難・屈辱の中の伝道からも、信じる群れのあること、教会があること、生きた神に触れる神の不思議な導きの力を確信した。
教会は神の体、私達はその部分でありといわれることは、神の群として、キリストによって救われたものの群として生きることである。
コリントの教会は弱小の群であったが、神によって建てられたもの、キリストによって救われたものの群で、神の権威を反映させるものだという事実である。
パウロは、今日の聖書の箇所でキリストを信じる力がどういうものであるか勧告する。教会が本当の意味で世を裁くものとされる力が与えられている、天の使いさえ裁く力が聖なるものの力であると示す。神は人間をどう創られたか、それは神の共同体の中で神の愛が輝き続けているところに見出すことが赦されるのである。(創
3章)この恵みの力を知りながら、争いを争いのままに外の力に委ねようとするのかとパウロは悲しみを持って訴える。そこにパウロが本当に伝えたいことが見いだせる。 それは「自分は死んでも、相手を生かす」主イエス・キリストの道、不義を受け入れても、相手を愛しぬく姿がある。それはこの世の基準からは見出せないものであるが、キリスト者はイエス・キリストの道を生きているゆえに、それが正しい姿だと示されている。
罪人がキリスト者とされ、正しい者ではなく、その救われた罪人が神の国を受け継ぐと約束される。そこに教会の持つ不思議さがあり、神の支配を現す器となる事を約束される。本当の源を持ち、神の器としての道を喜び持って歩みたい。
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