124  「神の言に直面する」コリントの信徒への手紙T 142025 

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20 兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。

21      律法にこう書いてあります。

「『異国の言葉を語る人々によって、

異国の人々の唇で

わたしはこの民に語るが、

それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう』

と主は言われる。」

22 このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです。

23 教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。

24 反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、

25 心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたのうちにおられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。

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待降節。それぞれ読まれる御言葉が糧となるという意味で、全ての教会が共に主を待ち望んでいる。私たちは神の共同体ゆえに、礼拝に集うゆえに、独りよがりの信仰ではなく、一つなのである。

 コリントの教会の歩みを記したコリント書。「大人になりなさい」という語は信仰に円熟したという意味でもある。この言葉の前に後ずさりするような私たちであるが、神から賜物を得て、全体の益となるように生かされている事実は揺るがない。自分の主人が自分である限り、私たちは後ずさりするが、私たちの主人は主イエスである。他のことには大人であるのに、神からの求めに対していつまでも子供で歩もうとするのは、私たちが主人を誤っているからである。大人になるとは、キリストの体として一つにされて、賜物すべてを用いてあらゆる判断について信仰をもって考え歩むことである。

 聖書はただの言葉ではない。神に出会わなければ聖書はただの言葉・神秘的な理解できない異言である。しかし預言に触れるならば、人は自分の非を知らされ隠していたものを明らかとされる。と聖書は記す。自分の持つ醜さを知る時、真に神が自分のうちにおられることを知るのである。神に生かされている私たちに許される預言は、不信仰を告白することによって与えられる。神に直面し、その言葉に打たれ、神が我がうちにおられることを知ること。この恵みを知る幸いを礼拝にて毎週与えられているのである。

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