12月18日 「私達に満ちている支え」 コリントの信徒への手紙T 151-11   

1 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。

2 どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。

3 もっとも大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、

4 葬られたこと、又、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、

5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。

6 ついで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。

7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、

8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。

9 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれる値打ちの無い者です。

10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして,わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。

11 とにかく、わたしにしても彼らにしても、このようにノベ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。

 

 パウロのコリント伝道は、紀元50年から51年頃といわれている。その後アポロへと引き継がれる。教会の歴史では300年頃までは迫害の時代とされる。そこに神の共同体が守られ、その中での礼拝の歩みは、神のみ前で御言葉を受け押し出される、まさしく迫害を生きる日々の命の糧となる真の姿があった。現在の私達も真に御言葉を受ける歩み、神の前に真実に生きる者として、神は何を語られるかを今朝の礼拝を通して深く新たにしたい。

私達が与えられている福音の訪れは、神に受入れられている喜びである。2節の福音によって救われるとの『救い』には、守る、癒す、直すの意がある。即ちこの救いをもつ者には、主イエス・キリストによって神の守り、癒し、直しが赦され約束されているのである。この神による『救い』を無駄にしてしまわない為には、御子主イエス・キリストが示されている聖書の事実を受け取ることである。3節以下の言葉は最も古い信仰告白といわれ、初代の教会は源として歩んだ事が生き生きと事実として語られている。これは信仰の内容であり、私達も同じ信仰に生きる者としてこの事実を信じ生きる事こそ救いとなる。信仰生活は日々の積み重ねである。それ故神から離れてしまう私達に御言葉を通して、受けている復活のキリスト故に信じぬき、望みを持ち、喜びをもって生き続けることが赦されるのである。主イエスの姿を思い、事実を受ける事は主の姿と一つとされる事に他ならない。毎年のクリスマスで私達は、その主の出来事を新たにする。神の恵み、私達の内に満ち溢れている事実は真の支えとなる。神の恵みを無駄にしない、聖書の示す福音の事実を礼拝を通して新たにすること。歩むべき道は示されている。主を心から讃美し、共に力強く信仰を歩み続けたい。

 

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