11月6日 「最高の道に生きる」 コリントの信徒への手紙T
13章T-7節
1
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。2
たとえ、予言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。3
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。4
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。5
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。6
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。7
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
「わたしはあなたがたに最高の道を教えます。」本日の聖書の箇所は、愛の賛歌と呼ばれる部分で、異言・預言・癒しの力に勝る愛の姿を描いている。愛は現代社会に蔓延する自分の利益になるか否かの交わりではなく、全体の益となるために約束されている神の賜物である。
また聖書は、ヨハネ第一の手紙の中で「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」と語り、真の愛とは主イエスの十字架による愛であり、私達がいつも問われ立つべきことを教えている。主イエスが自分の主語となる生きかたを、私達は賜物として熱心に求め続けなければならない。それに対し「私は愛されたい」と自分が主語になっている生きかたは、次々に平安を求め続け、結局平安も喜びも満たすことがないのである。
4節から7節までに示される愛の姿に対して、私達は自分には無理だと思ってしまうのではないだろうか。愛は常に自分の弱さとの闘いであり、真の愛は私達の限りある力ではどうにもならないというのが真実の姿である。本当の愛は神から与えられる賜物であり、主語の転換が不可能を可能にする。
「最高の道を教えます」神は一人一人に語りかけられておられる。十字架の姿により本当の愛を示された主イエスを信じ、神が共に居てくださる喜びに満ちた真の愛を輝かせて生きてゆきたい。