11月27日 『一つの筋が輝く恵み』 コリントの信徒への手紙T 14章1-19節
1
愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。2
異言を語る者は、人に向かってではなく、神にむかって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。3
しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。4
異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。5
あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。6
だから兄弟たち、わたしがあなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。7
笛であれ竪琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を引いているのか、どうして分かるでしょう。8
ラッパがはっきりした音を出さなければ、だれが戦いの準備をしますか。9
同じように、あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうして分かってもらえましょう。空に向かって語ることになるからです。10
世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。11
だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとってわたしは外国人であり、わたしにとってその話し手も外国人であることになります。12
あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。13
だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。14
わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。15
では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。16
さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。17
あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。18
わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。19
しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るよりも、理性によって五つの言葉を語る方をとります。
今朝の聖書の箇所でパウロは「預言する者は人を造り上げ、励まし、慰め、教会を造り上げる」と述べて、「預言するための賜物を熱心に求めなさい」と説いている。預言する者或いは預言するとは何も特別な人、特別なことを指すのではなく、キリストの十字架によって信仰と希望と愛を与えられ救いに与った、その喜び、感謝を全身全霊で表すことなのである。従って、パウロの言葉にある「預言する者」とは「キリスト者」と言い換えることが出来る。
自分は人を造り上げ、励まし、慰めるような力は持っていないと自分を小さく捕らえるのは間違っている。そうさせるのは自分の力ではなく神から与えられた賜物の力である。私達は一人一人神から自分にしかない霊的な賜物(カリズマ)を与えられ生かされている。神から与えられた賜物を祈りと讃美を持って感謝して受け止め、深めつつ熱心に追い求めていく時に、それぞれ異なる賜物を持つ者同士が必ず一つとなり、造り上げ造り上げられ、励まし励まされ、慰め慰められる交わりとなる。それが教会の持つ中心の姿に実現されるのである。「教会は私を作り励まし慰めを与えられる存在」となる。
教会の中心は礼拝である。礼拝で私達はみ言葉を共に味わい、神のみ手を深く感じ、霊的にも、知性的にも豊かに満たされるのである。教会はキリストの体であり、信仰を許された者はその部分としてキリストとの交わりの中で生きることが約束されている。教会は主イエスの輝きがあふれているところである。主イエスの十字架によって愛を与えられ生かされている私達は、主の愛を追い求め、与えられた賜物をしっかり見出し、信じ、感謝して歩む者とされたい。
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