1120『すべてのものが生かされるには』コリントの信徒への手紙T13章8節〜13節

 

8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、

9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。

10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

11 幼子だったとき、わたしたちは幼子のように話し、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。

12 わたしたちは、今は、鏡におぼろげに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときは、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。

13      それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

 

 今日の聖書の箇所は愛の賛歌と言われている箇所である。この聖書の箇所を通して、まず愛は賜物であるということを確かなものとしたい。愛に包まれ生かされている姿を真実なものとする。それは主イエスが言われた「まず主なる神を愛せ」と、招かれ歩む礼拝の姿である。ありのままの心を持って神に全てを捧げ、まず頑なな心を砕かれる。時を越えた真実の姿を持つのが教会である。教会の初期の300年は迫害の時代であった。その中で強力な伝道の推進があったのは永遠に変わらないものを源として歩む確信であった。私達は教会の歩み、現実の歩みと二つの心で歩んでいないか。神を信じているのにその歩みが出来ないと悩み、神がおられるのに不完全なままではないかと思ってしまい、まだまだと退く姿になっていないだろうか。しかし自分の中に神により変えられた所はないだろうか。例えば神を愛し、望みをおき、祈る姿がないだろうか。神の愛、自分の考えの愛に迷うところに聖書の語る愛を持つことはできない。それ故、聖書が命の糧とはならないのである。

聖書は記す「愛は決して滅びない」と。私達の考えは断片的なものにすぎない。だれでも鏡で姿を見るように間接的にしか自分を知ることが出来ず、そのような歩みをしているに過ぎない。しかし、私達は生きる時、確信を得たいと望む。パウロは12節で「はっきり知ることになる」と示す。それは既に神に知られ、愛され生きる約束を受けたこと、それが主の十字架の事実であり、愛は既に満ちている。その源ゆえに13節『信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。』と約束する。決して滅びる事のない光、主イエスを愛として賜物として与えられている。先ず、神に愛されているその源に歩む時、信仰も希望も全てのものが真に生かされる。神に愛される故に愛する心を赦されている恵み、深く感謝し歩みだしたい。

 

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