11月13日  「射し込んでくる愛の光」 イザヤ書116〜:10 

マタイによる福音書 201〜:16

                           東方敬信牧師

 

イザヤ書11

6         狼は子羊と共に宿り

豹は子山羊と共に伏す。

子牛は若獅子と共に育ち

小さい子供がそれらを導く。

7         牛も熊も共に草を食み

その子らは共に伏し

獅子も牛もひとしく干し草を食らう。

8         乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ

幼子は蝮の巣に手を入れる。

9         わたしの聖なる山においては

何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。

水が海を覆っているように

大地は主を知る知識で満たされる。

10      その日が来れば

エッサイの根は

      すべての民の旗印として立てられ

国々はそれを求めて集う。

そのとどまるところは栄光に輝く。

 

マタイによる福音書 20

1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけていった。

2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。

3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、

4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。

5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。

6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、

7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。

8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初にきた者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。

9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。

10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。

11 そこで、受け取ると、主人に不平を言った。

12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』

13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。

14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。

15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。

16      このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。』

 

主イエスはぶどう園の労働者の譬話をもって、地上の事として天の国を示された。地上において神の福音・愛を知らされれば私たちは新しい人生を始めるのである。最近、モチベーションという言葉が良く使われる。これは「動機付け・働く意欲」という意味で用いられている。

この譬話は朝早くに主人の方から労働者を雇うため積極的に行く、その「意欲」から始められている。これは神の愛が始まったことを意味している。愛とはじっとしては居られないものなのである。私たちの救いで言うならば、救い・モチベーションが向こうからやって来るのである。これは神の愛の出撃である。

このとき私たちは、市場でじっとしている人であるといえる。これは人生に生きがいを見出せない人間・愛が冷えている者の姿を現している。こういう私たちに天の国は向こうからやって来るのである。この天の国はイエス・キリストとして私たちのもとに到来した。神の愛・モチベーションが私たちのもとにやって来て、私たちの愛を暖めてくださるのである。

私たちは本当に価値のあることのために働いているだろうか。これは何をどれだけするかという問題ではなく、「夕方の一時間だけ」に現されているように、神の愛・モチベーションによって生きるという事である。このモチベーションの転換が、譬話の中の賃金に対する価値観の違いによって表されているのである。そして、これは神の愛はその人の功績に対してではなく、全ての人に同じように働くということである。神の愛・モチベーションに立ち「地の塩、世の光」として新たな命のときを歩みたい。

 

 

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