10月9日 「十字架の下に立つ者」 ヨハネによる福音書19章31−37節
田所義郎神学生
31 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。
32 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男の足を折った。
33 イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。
34 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れでた。
35 それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。
36 これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。
37 また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。
今朝の聖書の箇所は、一人の兵士が十字架に死なれたイエスのわき腹を突くと血と水が流れでたという場面である。主イエスは世の罪を取り除く神の子羊として全てのことが「成し遂げられた」(30節)と言われて地上での生涯をまっとうされた。「その骨は一つも砕かれない」との旧約聖書の言葉が成就されていく中で主イエスが過ぎ越しの子羊として死なれ、その死によって人類の血が贖われイエス・キリストを人間と神との仲保者とする新しい契約が結ばれることが示される。 また、この箇所においては主イエス・キリストの十字架を目撃した者の言及が示されている。この証は真実であると35節で示され、この者とは前節の26節においてイエスの愛する愛弟子であることがわかる。また、この弟子は最後の晩餐でイエスの胸元に寄りかかっていた弟子である。この弟子の姿は今も昔も私たちの心を打つ。
この愛弟子の見るという姿から、「見ること」が「信じること」と同義語であることがわかる。愛弟子の「見た」という姿はただ「見る」ということではなく、霊的な洞察を得て、イエスは父より遣わされた神の子であり、真の神であったことを「信じる」ということなのである。イエスの贖いの血と永遠の命の水こそ、愛弟子が見たものであり、そして、「見て、信じ」さらに証することへと突き進まされていくことこそが動的な信仰である。私たち、主イエスを「見ないで信じる者」に時間的な隔たりを克服して、日々の営みの中で主イエス・キリストに出会うことをヨハネ福音書は求めているのである。見ないで信じる者は幸いであるとの主イエスの祝福の言葉に生かされ歩みたい。