10月30日 「キリストの体であるために」コリントの信徒への手紙T 1227-30節  

 

27 あなたがたはキリストの体であり、又、一人一人はその部分です。

28 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者なのです。

29 皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。

30 皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。

31      あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。

 

私達は、人からは理解されなくても神から与えられた賜物が備えられている。神から与えられた賜物は人間の力で出来たものではないので、隣人と優劣を競う必要もない。ある教会に時代の波が押し寄せ、教会をコミュニテイの場に明け渡してしまう危機があった。ある一人のご高齢の女性を除いて全員がこの時代の流れは仕方がないと感じていた。ところが、子の女性が「私一人になっても礼拝を守ります。私が生きている間、ここは教会です。」と主張して教会の明け渡しに反対した。その結果、この教会は守られ、そのうち会員数が増え、もう一つの新しい教会を生み出すまでになった。真のキリスト者がいると、教会は真の道に立ち戻れることを示す一つの証の姿である。そこには、神に与えられた賜物を生きる、キリストの体である輝きがある。「あなたがたはキリストの体である」と繰り返し聖書は訴える。キリストの恵みを受けていると感じられても、キリストの体であると実感する人は少ないのではないだろうか?神は一人一人のうちにおられる。神共にいます・・・インマヌエルなのである。そして人をお立てになる即ち任命される。教会は組織ありきではない。神に招かれ、礼拝に集うものは、礼拝を守るために神によって召しだされている役目を神によって与えられ任命された互いである。パウロは、最後に大きな賜物を得るように努めなさいと訴える。使徒となるよりも癒しの力を持つものよりももっと大きな賜物それは愛であると。その愛を持つ姿こそキリストの体として生きる者である。神の愛の姿を全身で示していきたい。

 

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