10月2日 「大きな力と慰め」 コリントの信徒への手紙T 12章12
-26節
12
体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。13
つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるためにを受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。14
体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。15
足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。16
耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。17
もし、体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。18
そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。19
すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるのでしょう。20
だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。21
目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、又、頭が足に向かって、「お前たちは要らない」とも言えません。22
それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。23
わたしたちは、体の中でほかよりも格好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。24
見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。25
それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。26
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
コリント
12章の前半で霊の働きである、「イエスは主である」と告白する姿を新たにされた。その告白に生きる群れだけが真の教会・神の教会である。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」とパウロは教会をキリストの体と考える。そして
13節で「つまり一つの霊によって私達は、・・皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらった」と述べる。教会となるのは、洗礼によってキリストの体に入れられる事である。教会生活は、まずキリストの体を信じ、自分がその中に加えられていることを感謝する生活でなければありえない。体は、確かに多くの部分からなる。しかし、「神はご自分の望みのままに、体一つ一つの部分を置かれた」のである。体が一つでありえるというのは、まず神の支配、即ちキリストだけが支配している所でなければならない。それは教会の大きな分岐点となる。神は、誇る者は主を誇るようにあえて世で小さき無力な者に恵みの賜物をお与えになった。それが霊の賜物を持つありのままのキリストを信じる教会の姿である。それは1つの体なる教会が既に神によって存在されている事実を示す。
確かに教会に集う人は、様々な背景を持つ。その存在が共に讃美し・祈り・御言葉に預る歩みをなす。何時の間にか1つが示される。教会が神の教会としてのみ1つこの世にあって輝いている故である。そこには神の支配・神の力が満ちている。だからこそ、先ず神に我が身を献げる時、自分に変化が与えられ大きな力と慰めを見出す。教会に集う時、日々の歩みの支配から開放され、本当の生きる姿、1つの体の為に神の教会に神によって必要とされ置かれた喜びをもう一度取り戻せる。大きな力と慰めを受け
1つの神の体として生きる喜びを新たにし、輝きを放って共に歩みたい。に戻る み言葉に聞くに戻る