1月23「まことに自由であるということ」 ガラテヤの信徒への手紙52-15

                    田所義郎神学生 

2 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。

3 割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。

4 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。

5 わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。

6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

7 あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。

8 このような誘いは、あなたがたを召しだしておられる方からのものではありません。

9 わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。

10 あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。

11 兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。

12 あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。

13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために目しだされたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。

14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。

今朝の聖書の箇所「キリスト者の自由」では、キリスト者が自由を与えられ、その自由を正当に行使し、その自由に生きることのキリスト者としての重要なメッセージが語られている。

一六世紀、宗教改革のルターは、その著「キリスト者の自由」でキリスト者の自由とは第一にキリスト者は全ての者の上に立つ自由な君主、主人公であり、何人にも従属しない、そして、第二にキリスト者は全ての者に奉仕する僕であって何人へも従属する≠ニ言い、パウロもコリント書で私は誰に対しても自由ですがより多くの人を獲得するために全ての人の奴隷となりました≠ニ記している。まったき自由がまったき奉仕である、これは正に主イエスご自身の生涯を通して示された事であり、そこから学び取られたものである。

又、自由を語る時、そこには同時に必ず愛がある。「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と、パウロはこの手紙で愛によって働く信仰を述べている。キリスト者に与えられた自由を正しく用いるためには愛に働く信仰が不可欠である。唯一イエスに従い、その愛により人に仕える、そこに見出せる自由、我々キリスト者の歩みは、常にその自由を与えてくださった主イエスの許に立ち帰り、信仰、希望、愛を再発見して進められるものである。

自由への呼掛けは主イエスの十字架とその復活においてなされている。この呼掛けは全世界に向かってなされている。この呼掛けに応えるのが真に自由な人々の群れである我々の教会である。この教会に招かれていることに感謝し、キリストにある自由における歩みを進めたい。

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