1月16日「それでも世界を肯定する」 創世記
1章1-5節、コロサイの信徒への手紙
1章13-20節
東方敬信牧師
創世記
1章1
初めに、神は天地を創造された。2
地は混沌であって、闇が深遠の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。3
神は言われた。「光あれ。」こうして光があった。4
神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、5
光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。コロサイの信徒への手紙
1章13
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。14
わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。15
御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。16
天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。17
御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。18
また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。19
神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、20
その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
私達の人生には「こんなはずではなかった」という失敗や人間関係の予想のつかない出来事に見舞われ、愚痴がこぼれることが沢山ある。天地創造の聖書の記事は、地は混沌としていて、こんなはずではなかった嘆きの塊が私達にぶつかってくるものである。また創世記第一章の記された時代は、バビロニア捕囚期にあたりイスラエルの民は、混沌とした暗闇の世界を彷徨っていたのである。
ここで聖書の神は、物言わぬ神ではなく積極的に語りかける神であり、創世記は科学的な宇宙の始まりを記したものではなく、悲劇の暗闇の中で生きる意味があるのか?との問いに対しての応答なのである。そして神の語りかけの頂点がイエス・キリストの存在、つまり闇の世界に入り、私達の側にきて、語りかける神の言葉の姿である。
創世記の「光」は、太陽・月・星などではなく、私達の存在を肯定する明るさであり、神の恵みの光源・神の愛の明るみを示し、私達はこのような明るみの中に立たされている。礼拝・祈りを通した主イエスとの出会いによって聖なる愛に身を晒すことにより、私達は絶望・傲慢・愚かさというバイ菌が殺菌されて健やかにされ、新しい価値観で生きてゆくことができる。
私達の存在全体が明るみに晒され、殺菌され、互いに愛し合う。そのような新しい価値観の中に生かされている私達は、「こんなはずではなかった世界」を「それにもかかわらず」肯定するのである。
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