2004815 富士見丘教会 夏期修養会  礼拝

説教:「自分の体で神の栄光を現しなさい」

ローマの信徒への手紙12章T-8節

吉祥寺教会牧師  吉岡康子先生

 

今日こうして、大切な聖日の礼拝のみ言葉の取次ぎのご奉仕、又伺いますと年に一度の大切な教会の全体修養会にお招きいただきましたことを心から感謝いたします。わたしは今、先生からご紹介頂きましたとおり、吉祥寺教会の牧師をしております吉岡と申します。数年前になりますけれどこちらの教会の、若いお母さんたちとご一緒にお話しをする会、正式な名前は失念しましたが、一度お招きを頂きまして、3年ほど前の2月頃だったと思いますが、一度伺わせて頂たことがあります。今日は、改修なったこの美しい教会で、又聖日の礼拝の恵みにご一緒に与れることを大変うれしく思っております。

今年は本当に暑さの厳しい夏で、今日は本当に恵みの雨、又久しぶりに大変涼しいと言うかそういうような日になっておりますけれど、この暑さの中、様々な夏のプログラムと言うようなものがこちらの教会でも、皆様お一人お一人も色々と経験されていると思います。

私も既に幾つかの夏の特別のプログラムを豊かな実りのうちに終えることが出来ました。

 

その中で大変心に残った言葉、と言うよりも一つの出来事からまずご紹介したいと思います。それはただ今ご紹介して頂き大変嬉しかったのですが、私は数年前から韓国の教会の、特に高校生と日本の教会の高校生との交流プログラムのお手伝いをさせて頂いております。もともと私の出身はこちらの教会と同じ西南支区の聖ヶ丘教会で育てられましたので、その聖ヶ丘教会で育てられました交流のプログラムなのですが、韓国のソウルに日本語読みすると“永楽教会”という大きな教会があります。

この教会は韓国でも有数な規模の大きな歴史の古い長老系の教会ですが、この教会と聖ヶ丘教会との交流が基になり、やがて、西南支区全体、そして数年前から私の所属している西東京教区も交えまして、教会の高校生が夏に隔年で行ったり来たりの交流をしています。名前は“韓日教会青少年交流会”、名前は立派なのですが実際は私のデスク一つでやっているような小さなことなのですが、しかし、毎年、約20名ほどの高校生が行ったいり来たりする中で大変多くの恵みを与えられています。当教会でも覚えていてくださり、色々な形での支えを頂いていることに感謝しています。

韓国では大変大きな規模の教会があることは皆さんご存知でしょうが、この永楽教会も規模が大きく今45,000人の信徒がいる教会です。高校生だけで1,000人いる。何時も行く度にびっくりするのですが、高校生の礼拝は夏休み中なので少ないといっていましたが、700人ぐらいの高校生が礼拝を守っている。700人の分級が行われる。今年は送り出すほうで直接に自分は参加しませんでしたが、日本から高校生16名、リーダー4名合計20名で7月末に訪ねました。23日の修養会でした。この修養会にも半分の500人が集まりました。その中に日本の高校生の16名が参加させていただきました。その報告を聞く機会がありました。

 

この日本の高校生の報告会は大変印象深いものでした。

修養会のテーマは“悔い改めと回復”でした。プログラムは礼拝があり、分かち合いがありますが、プログラムの柱になっているのは、1時間神様のみ言葉を聞く、1時間賛美をする、そして1時間祈ると言うもの。その3時間のプログラムが幾つかになっています。初め、この3時間のプログラムを参加する高校生に見せた時、日本の高校生の間では“まじ?”という感じで受け取られました。こんなの耐えられるかなあというようなことを言っていました。首を捻りながら参加しました。帰ってきてその報告を聞いて私も大変心を打たれたと言うか印象的でした。

6日間の全体プログラムの中で何が一番印象的であったかというと、韓国の同じ世代の高校生の祈りに一番心を打たれたと言うのです。よく言われるように、日本の教会はみ言葉に大変よく聴く教会であり、台湾の教会は賛美をする教会であり、そして、韓国の教会は祈る教会であると、言わば大変古典的な言い方ですがそういう風に言われています。そして韓国の教会が祈る教会であると言うことが、高校生達の姿を通して高校生が本当に理解したと言います。

どういう事かというと、1時間祈るだけでなく、朝も1時間の祈りがあり、夕べにも1時間お祈りがある。始めはそんなに耐えられるかと思ったけれども、その祈りは本当に心に残った。それは何故かというと、祈りが、先生、違うんですと言うのです。つまり沢山集まっている同じ世代の高校生の祈りは、日本の高校生は自分の祈りというのは、試験前に神様何とか自分ががんばった結果を出さしてくださいとか、辛い事があったらこれを何とかしてください、或いは、ああしてください、こうしてくださいと言うお願いの祈りがどうしても自分の祈りの中心でした。

ところが同じ世代の韓国の高校生の祈りは、ぜんぜん違う。どう違うかというと、ああしてくださいこうしてくださいではなく、私を変えてください、自分を変えてください、そして神様の栄光を現すために今私を変えてください、そして私を用いてください、私を遣わしてください、そういう祈りを何回も何回も、激しくお祈りをしている、それに本当に心を打たれたと言うのです。つまり、神様にお願いを届けるのでなく、自分が神様のお役に立つために今、私を神様の御用のために、私を変えてください、私を用いてください、そして私を遣わしてください、というこの祈り,ああこれが韓国の教会が祈る教会である、そして伝道が前進をして、教会が豊かになっているその秘訣がここにあるのだということを自分は感じた、との高校生の報告でした。

 

これは本当に大きな収穫であったと思います。又、そのことを聴いた私たちも非常に心を打たれました。つまり日本の高校生たちが同じ世代の韓国の高校生の祈りに触れて得た一つの転換がここに起こったのです。つまり、祈りは何かを得るための祈り、何かを与えてくださいではなくて、自分を変えてください、自分を捧げ、今用いてください、と言う、献身の祈りがここで生まれたというのが非常に大きな出来事であったと思います。

 

今日、聖書のみ言葉を通して正にそのことが、語りかけらえていると思います。今日、ローマの信徒への手紙12章の一番初めのところがみ言葉として与えられました。もう一度、1節、2節を見てみますと、このような言葉が書かれています。

「こうゆうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として献げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、又完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

 

祈りは、礼拝であるといってもよいでしょう。パウロはローマの人々に送った手紙の中で、祈り、そして又、礼拝と言うものは、この場で何かを頂くのが目的ではなくて、ここで私たちがなすべきことというのは、この今生きている私の生活、私の体、私の賜物、自分の体を神様に喜んでいただける聖なる生贄として献げる,これが私達がなすべき礼拝なのだ、と言うことを私達は今語りかけられています。つまり、礼拝と言う場における頂点或いはクライマックス、礼拝は全部が大事ですが、敢えて言えば、説教、み言葉、賛美も大事ですが、礼拝の場で重要な箇所というのであれば、それは感謝の部分であり、信仰の告白であり、そして私達が感謝の印として献げる献金、私達が神様に対する応答、感謝と言うものが礼拝におけるもっとも大切な場であると言うことがここで示されていると思います。

つまり、礼拝と言うのは、今私達はこの場で何を学ぶか、私達が神様に丸ごと喜んでいただける生ける生贄として今献げることが出来る、私達の良い所もあり、悪い所もある、素晴らしいところもあれば、困ったなあというところもある、元気なところもあれば、病んでいるところもある、そういう私達全てが今神様の前に喜んで献げることが出来る、それを神様が喜んで受け取ってくださる、この私自身が神様の前に捧げられるという、そのことを喜ぶ場であり又、学ぶ場がこの礼拝であると言うことを今私達に示されているわけです。

 

何よりも、そのことは、私達はこの礼拝の場であるこの場が、神様の一人子であるイエス様が私達のために、その全てを捧げて下さった、何よりも、神様の神の子の献身、サービスだと言うものが今あるのだなと、第一に基本になると言うことも大事なことだと思う。

礼拝というのはサービスと言います。キャンドルを使って献げる礼拝だからキャンドルサービス。礼拝は正にサービス。何がサービスであるか。サービス、つまり奉仕、の場で私達はまずサービスを受ける。つまり神の一人子であるイエス・キリストが私達のために人の姿をとって、人の子となってこの世に来てくださった,そして私達の全て、徹底的にサービス、奉仕をしてくださった,つくしてくださった、仕えてくださった、仕えられるのではなくて仕えてくださった、神の子の献身、サービスと言うものが,まず私達の人生と世界を根底から支えていると言うことを私達は今礼拝の場で学ぶわけです。知るわけです。信じることが出来るわけです。そして、この神の子の献身、サービスに支えられて、促されて私達は、私達のためにまず仕えてくださった主イエス・キリストの為に,神様の為に、私達も徹底的に喜んで仕える者になろうする、その恵みの循環と言うか、押し出しと言うものが今私達が捧げているこのサービスです。

 

多少余談になりますが、国勢調査の時、牧師という職種は何に属するか、宗教家に属する正にサービス業に分類される、美容師などと同じサービス業に分類されることが分かりました。

牧師の一番大切な仕事は、正に礼拝に献身する、サービスを守ると言う仕事です。そして、キリストと教会に仕えると言う意味では、教会に仕える牧師がサービス業に分類されることは真に粋な話であると思いました。

 

正に礼拝、そしてそこに仕える私達は、神の子のサービス、献身に支えられて、私達は今、私達の全てを、徹底的に私達に捧げてくださった主イエス・キリストのために私達は今何よりもこの礼拝の場において、全てを捧げる、つまり、私達が今イエス様から望まれていることは、ここで何かが私達が有難いことや何事かいい話を得ると言う事ではなくて、私達のこのままのものを献げることの大切さと喜びが,この場で求められていると言うことです。

私達が何かを得よう得ようとする時、何か自分のものとして得よう、獲得しようとする時、私達はかえって色々なものを見失ってしまったり、かえって手からするっと抜けてしまったりという経験があると思います。私達が何かを捧げる、或いは何かを失う、或いは何かを捨てると言うことを通して、本当に大切なものを見つけたり、得たり与えられたりする。主イエス・キリストが全てを捧げ全てを捨ててくださった、主が私達のために全てを捧げてくださった、と言うことを正しく知り又信じる者だけが,喜んで全てを主にお捧げすることが出来ることが、今私達がこの場で学ぶことではないかと思います。

そういう意味では、信仰生活或いは礼拝を献げる生活と言うものは捧げる生活、或いは今与えられているものを豊かに生かして神様にお返しする生活であると言ってもよいでしょう。

 

マタイによる福音書2514節―30節に有名なタラントンのたとえがあります。来週の日曜日にタラントンのたとえが説教で語られると言うことですが、何人かの人が主人から、量は違いますがタラントンを預けられて主人が旅に出る。その間にそれぞれが色々な用い方をするのですが,主人が帰って清算を始める。一生懸命タラントンを用いた人は主人から良い僕と言って大変褒められる。ただ一人,与えられたタラントンを失うことが怖くて、減っていしまうことが怖くて、使うことが怖くて土の中に埋めておいた、その一人の僕だけは、すごく大きく、厳しく怒られている話です。

 

タラントンは私達一人一人が神様から与えられた私の全て、体であるし、生活であるし、才能であるし、可能性や時間など全てであると思います。つまりこのタラントンのたとえを通してイエス様から色色なことを教えていただいていますが、ある意味では非常に厳しい,この話を聴く度に、体、時間、生活、可能性,全ては神様から今私達がお預かりしているものであると言う、その恵みと厳しさを私達に語りかけていると思います。つまり、今、私達に与えられている全てのものを通して、私達が人生のどれだけの、全てのものを用いてそれを神様の前に,神様の栄光のために使っているか、全てのものを徹底的に用いて,そのことを通して神様の栄光を現すというのが私達の人生の使命,ミッション、正に命の使い方であるということがここで語られています。

 

一タラントンを地面の中に隠していた人がでてきます。彼が何故そうしたのか?色々考えられますが、おそらく彼のそのような行動にでたということは,無くするのが怖かったからと思います。失うのが怖かったからでしょう。そして、失ってしまって怒られるのが怖かったからだと思います。けれどもそこにあるのは結局自分しかなかったのではないだろうか。そこには神様は見えていない。自分が怒られる、自分が無くす、それが心配だった。自分のことだけを考えると私達は不安になるし、心配をしてしまう。或いは、他の可能性としては自分のものばかり見ていると、自分のものと人のものを比べて、どうして自分は一タラントンだけで、他の人はもっと沢山のものを与えられているのだろう、或いは自分はこんなに与えられている、あの人はこれだけしかない、喜んだり僻んだりそうした生活が起こってしまう。けれどもそれは自分だけしか見えていない生活であって、神様のものではないと言うことが、この僕を通して示されているのではないかと思います。

 

自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として捧なさい、神様のものである私達は、与えられたものをことごとく使わなくてはならない、大切に何もしないでしまって置こうというのではなくて、神様の為に私達の全てを、良いところも悪い所も、大胆にお献げをする、その時に神様は、それを大胆に用いてくださる、その際に、わずか一タラントンであるとか、こんな自分では、こんなコンデションの悪い自分では、こんなに何も出来ない自分ではなどという事を、自分の状況を自分のことだけに目を向けては意味がないと言うことなのです。一タラントンであるとか、或いは今自分は非常に悪いコンデションであるとか、そんなことは何の問題でもないと言うことです。

 

自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として捧なさい,この言葉に今一度注目してみますと、他のどっかにある,あなたの今持っている一番良いものを捧なさいということではない、自分の体をと言うこと、このことに注目したいと思います。捧げるべきものがどこか私達の外にあるのではない、たった今生きている、今在る私のそのままの、在りのままのものを捧げると言う事が大切であり、もう少し立派になってからだとか、もう少し状態が良くなってから、美しくなってからと言うのではない、今ある状況の全てを捧げるということです。体ということに注目したいと思います。

 

今年もう8月半ばになっていますが、今年前半のキリスト教会の全体の一つの大きな話題はパッションと言う映画ではないかと思います。様々な評価があります。しかし、このパッションの映画が問いかけた一つの大きな問いは、イエスのパッション、受難を非常に生々しく、リアルに再現をしているということです。色々評価はありますが、この映画の一つの意味は、イエス様の受けられた受難が何か非常に神々しくて神秘的で美しいことではなくて,実に生々しい又痛痛しい出来事であったと言うことを訴えたと言う点では,一つの大きな問いかけとなったものではないかと思います。つまりイエス様がご自身を十字架の上に捧げられたということは、心とか頭とか信仰ということだけではない、体全体が十字架の上で神の子の犠牲として捧げられたということ、丸ごと主イエス・キリストが私達のために生ける生贄となってくださった、その主のご受難、傷が,痛みが今私達を生かしてくださっている、ですから私達もまた,自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として丸ごと全部捧げることが今求められているということです。

 

体ですから、私達は時に病むこともある。このように暑さが続けばまいってしまう時もあるし、急に涼しくなれば又夏ばてとなってしまう時もある、病気をする時も在り、怪我をする時もある、年齢が重なってきて色々な不自由になることもあります。けれどもその体、生活そのままが神様に捧げられるという、そのことが大事であると思います。

 

最後に私の属している教会の2人の方のことをお話したいと思います。

Sさんは骨粗症症になられて二十数年間礼拝に来ることが出来ませんでした。7年前に天国に召されました。二十数年一回も礼拝に来ることが出来なかったS姉妹,けれどもこのSさんのお宅には、何時も賛美がありそしてその場が祈りの場でもあり慰めの場でした。教会に行くことが出来ないだけではなくて、24年間一歩も家の外に出ることが出来なかった。時々、デイ・サービスのような所には行っても,自分の足で歩くことが出来なかった。ですけど、吉祥寺のお宅にSさんは何時もコタツの所に座っておられて、そして不自由な体を寝たり起こしたりしながら、昼間は座っておられる。そして、何時もニコニコと玄関を開けるとSさんはそこで祈っているし、そこで色んな人を待っている。彼女は自分の足で歩くことは出来なかったけれども、彼女の所に色々な人が行ってそして、反ってそこで慰められ祈り合い、そして賛美が捧げられる。

大変不思議なことなのですが、私も牧師をしていて色々なことがある、辛いことや悲しいことがある、或いは週末にだんだん迫ってきて聖日の礼拝の準備をしなければならない、時には土曜日になってしまって聖日のみ言葉の御用の為に準備をしなければならない、段々焦ってくる、或いは辛い事がある。そのような時、何時もふと心に浮かぶのがあのSさんのことなのです。勿論色々な方が牧師の私の為に祈ってくださっており、その祈りに自分が支えられていることを思うのですが、特に何時も強く思っていたのは、礼拝の場には一回も私が仕えさせていただいた間には来る事が出来なかったSさんですが、あの方が今私の為に、必ず祈っていてくださるという、そのことを思うと力がふっと湧いてくるような、そういう、私にとても本当に慰めの場所であり、それがSさんのお宅であり病床でした。その方は天に召されましたが、今でも私の為に祈っていてくださるなということを非常に思うわけです。

 

もう一人の会員、Nさんは今ホスピスにおられます。命の終わりを見つめながら生活しておられるひとりの姉妹です。ホスピスに入られると言うことはご自分の命が、あと本当に厳しいと言う状態であることを認めて入られている、出来るだけ毎日その方の病床をお訪ねするようにしていますが,そこで私は沢山のことをこの方から教えていただいております。自分の命が、今週かもしれない、明日かもしれない、来週神様にお返しするかもしれない、けれどもこの方はその人生の最後という時に、私にしか出来ない大切な仕事を今していますと言います。それは、この方のご家族の関係が非常に複雑で、そして非常に悲しい出来事なのですが、一つの問題を通してご家族が今ばらばらになってしまっている、けれども今私が出来ることは私の死に向かっているこの命、そして仮に死んだ後の、私はそのばらばらになった家族が私の命の終わりと死と言うものを通して、もう一度結び合わされる、そのことの為に今、私はこのホスピスと言う場を選んで、今来てそして神様の許に帰って行こうとしている、自分で出来る最後の仕事の為に今、私はこの場を与えられていますとその方は言い切っています。

 

三浦綾子さんが亡くなられる前に、「自分には最後死ぬというとても大切な仕事がある」と言われたと言うことを本にして残されています。もう正に人生の最後の最後に、しかし自分にはなお与えられた使命があると言う、その命を燃焼する、そのことの為に尽くしている、そのことで私は大変多くのことを教えて頂いています。

 

私達が生きる時もまた死ぬ時も、誰に喜ばれる為でもなく、神様に献げる、神様に喜ばれるために私達の全てを捧げる、ただ神の栄光のために私達の命も、私達の全ても、又死さえも神様にお捧げするときに、神様は私達の全てを大きく用いてくださる、ただ神の栄光の為に私達が生き、また死んで行く、そのために私達は今この世に生かされ、又何時の日にか神様の所に帰って行く、自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として献げる、この素晴らしい礼拝と言う、この場に集わせていただいている喜びに溢れながら、私達も又、ただ神の栄光の為に--ソロ デオ グロリアというのですが、--この私達の信仰の先輩たちが、そして信仰の友が今示していて下さっている誇り高く、又雄雄しい喜びの歩みに続いて行きたいということを心から願うものであります。

 

祈祷

終わり

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