9月5日  「失われない確信」 コリントの信徒への手紙T21-5

1 兄弟たち,わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。

2 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。

3   そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに撮りつかれ、ひどく不安でした。

4  わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。 

5 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

 御言葉を伝え、教会を築いたパウロは御言葉に精通していたが、自分の姿、歩みに自信を持っていた訳ではない。
 三節に記す姿にあるように弱さを覚えてコリントの地に着いた。しかし、
「使徒言行録十八章」の主の声を受けて立ち上がり、二年近くコリントの人々にみ言葉を伝えることが出来た。それ故一章三一節の『誇るものは主を誇れ』を高らかに自分の生きる源として示したのである。それは語るもの自身の神共にいますとう喜びに生み出された言葉にほかならない。この言葉は一筋に神に生きるものの姿である。

花が一筋の気持ちで咲く故に美しさを自然に示し、触れる者の心に平和を生み出すようにパウロはキリストの香りを伝え続けることができたのである。

 私達は、一人一人がその人にしかない神のご計画を自身で喜びを持って知ることが求められている。十字架の出来事の下にいるゆえに神が共にいる歩みは失われる事はないのである。真の平安と喜び、力強さに生きる歩みであることを示しつづけたのが教会のニ千年の歴史です。

 パウロは、コリントでは、優れた言葉や知恵を用いなかったと高らかに記し、十字架のイエス・キリスト以外に何も知るまいと心に決めていたと記す。私達の日々の歩みは奇跡の歩みです。神が共に歩んでくださるゆえ与えられている歩みです。

パウロが見出している源は主イエス・キリストの十字架を源とすることです。私達の身を通して神の霊と力の証明がなされることが神が与えられた約束として聖書には輝いている。

恐れることなく証人として生かされている恵みを喜び感謝を持って生かされ歩みたい。

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