9月26日  「わたしを愛してこられたお方」 ヨハネによる福音書151-17節 

兼子洋介神学生

1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。

2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。

3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。

4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。

5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。

7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによってわたしの父は栄光をお受けになる。

9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。

10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされる為である。

12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。

13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、又、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

主イエス・キリストはご自身の愛のうちに留まるよう、わたしたちに命じられ、これが掟であると言われる。主イエスの愛に留まることが、主イエスの掟を守ることなのである。そしてこの掟は12節の「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という言葉として命じられている。さらに「友のために自分の命を捨てること」として具体的に示されている。しかし、わたしたちの実際は、互いに愛し合うことの難しい弱さの内にある。主イエスの愛に留まれず、外に投げ捨てられ、焼かれてしまっても不思議のないところにある。

しかし、主は「あなたがたの喜びが満たされるため(11節)」にこれらのことを語られたのである。愛し合えない自らの姿に失望させるのではなく、喜びで満たすために、主は「あなたがたは既に清くなっている」と語られる。主の前に裁かれるしかなかったわたしたちに、生きる希望が与えられている。その上であらためて、「わたしにつながっていなっさい」と言われる。主イエスが先立ってつなぎとめてくださっているゆえに、わたしたちはこの掟の前に立つことができるのである。「わたしもあなたがたを愛してきた」という御言葉にそれが表れている。わたしたち一人一人を見出し、、選び、任命してくださったお方がここにおられる。このお方はまことのぶどうの木である。幹が幹として立つための栄養すらも、枝であるわたしたちに回して豊かな実を結ばせる。このお方の存在を示されているがゆえに、わたしたちは与えられている掟へと安心してチャレンジすることが許され、希望が芽生えているのである。

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