9月12日  「悪とのたたかい方」  マタイによる福音書131830

東方敬信牧師 

18 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。

19 誰でも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。

20 石だらけの所にまかれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、

21 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまづいてしまう人である。

22 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。

23 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

24 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。

25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。

26 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。

27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』

28 主人は『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』というと、

29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。

30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

 今朝の箇所でマタイ福音書は天の国とは言っても、地上のことを語る。そして、神がご支配する世界はこのようだと言う。この畑は口語訳の聖書で「自分の畑」ということである。このことは大切である。たとえ大きな畑だろうが、小さな畑だろうが、畑の持ち主は、その畑を一生懸命耕す。そのように神は、信じる者もいれば、信じない者もいる世界を自分の畑であるとおっしゃる。ここに神の愛が示される。この畑はイエス・キリストが十字架にかかり、隣人を愛しなさいと教えられた畑である。コロサイ書に万物は御子によって創られたという言葉、言い換えればそれは、万物は神の愛によって創られたのである。

 これに続き、畑に毒麦が蒔かれたことが書かれ善である神が創った世界に、いつ悪が入り込んだのかという、私達の人生の謎を示す。この譬えはこの問いに対して明確に二つのことを示す。一つは、それは「敵意を持った者の仕業である」という自分を誇り、神を蔑ろにする私たちの中にある罪の姿。もう一つは、「眠っている間に」という私達が自己の欲求を夢中になって追及している間を示す。私たちはこのような姿にあきらめる必要はない。それはこの世界は神の畑であるからである。

主人が「僕たちに今は毒麦を抜くな」と水を差す姿、それは忍耐の姿であり愛がある。主イエスは私たちの決断を待っておられる。僕達が見せた英雄意識ではなく、私たちの罪を背負い、それを解決してくださった神に感謝し、悔い改め、人に仕えて生きる決断をするという事である。これらは単に受身で成されることではなく、恵みにより、私達の生活の中で神の愛を表現する事、真に人間らしく人間として生きる事によってなされる。これらの中にキリストの愛を豊かに感じ、希望に満ちて歩んでいきたい。

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