8月8日 「神が求めるもの」 コリントの信徒への手紙T
1章18-25節
「神の力、神の知恵であるキリスト」
18
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、
賢い者の賢さを意味のないものにする。」
20
知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。21
世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。22
ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、23
わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち,ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、24
ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。25
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
私達は今朝の聖書の箇所十八節のみ言葉を日々の歩みの中でどのように歩んでいるか、即ち、キリストの十字架をむなしいものにしないように歩んでいるか。宣べ伝えるべき福音は、それはこの世のために神がなされた歩み、神の勝利の出来事の告知以外にない。マルコ福音書十五章三九節の「本当に、この人は神の子であった」との百人隊長の告白は、十字架の主イエスの勝利ゆえに復活の勝利があることを示している。 主の十字架は人を生まれかえさせる神の力であり、キリスト者はそれを受けている。
十字架の言が神の力であるといえるのは、十字架の教えではなく十字架の言をもっているからである。十字架の言ゆえに滅んでいくものと救われるもの、二つに分けられるとパウロは記す。十字架の言が単なる教えになっているところには、まちがいがある。そこでは十字架に生きることがなく、生命の糧としてみ言葉を受けていない姿がある。聖書が「言」をいうとき言は神であることを指す。(ヨハネ福音書一、一)
十字架の言はイエス・キリストは神であることを意味し、その言を受ける者は救いをもつものにかえられると宣言される。私達は救いを自分のものとし、み言葉をみ言葉として受け入れず神の与えてくださる救いを見失っている姿となってはいないだろうか。主イエス・キリストの十字架の言を真実に受ける時、罪ある者が救われて神を知り、神のみ前にでることができ、神を愛することが出来る。
十字架の言に生き、宣言する宣教を神がよしとされ、私達のなすべきこととしてくださるのである。
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