8月29日  「神のみ前に立つ意味」 コリントの信徒への手紙T 1章26-31節

26 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。

27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。

28 又、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。

29 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。

30 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。

31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

「あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」とパウロは言う。それは、立派な歩みをする強い自分を見出せということではなく、一度立ち止まって思い起こすところから神が私を召していることを新たにすることである。

それぞれ違った形を通って神が召して、わたしたちは今ここにある、。召されるということは呼ばれることである。自らの力で強い者になろうとするとわたしたちの歩みは苦しくなるが、神がわたしたちを必要としてくださり、名を呼んでくださるのである。

主イエスの十字架はわたしたちを救うためのものである。わたしたちを救うため、神がわたしたちを必要としてくださっていることの証しである。わたしたちには神に必要とされた者同士という共通点がある。

神によってイエス・キリストに結ばれていることを知ること。自分のために十字架があったと受け入れること。このとき神に必要とされ生きているありのままの自分の姿を認めることができる。ありのままの自分を必要としてくださっている神という原点を思うとき、私たちが誇るものは主の十字架のみである。神に必要とされている喜びに立つとき、わたしたちの喜びの姿は人々に伝わり、伝道となるのである。

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