8月15日 「自分の体で神の栄光を現しなさい」 ローマの信徒への手紙
12章1-8節――教会全体修養会――
吉祥寺教会牧師 吉岡康子牧師
1
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧なさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。2
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。3
わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。4
というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、5
わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。6
わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、7
奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、8
勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。
今年夏、韓国で開かれた韓日高校生の修養会に参加した高校生は、韓国の高校生達の祈りに一番大きな感動を覚え、韓国の教会が祈る教会であり、豊かになっていくその秘訣がここにあることを実感して帰ってきた。彼らの祈りは、神様の御用の為に自分を変えてくださいとの激しい祈、献身の祈りであった。
パウロはローマの人々に送った手紙の中で「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です。」と勧めている。「心を新たにして自分を変えていただきなさい」と言っている。礼拝は祈りであると言ってよいし、礼拝の場におけるクライマックスは、敢えて言えば、感謝であり、信仰の告白であり、その印としての献金、献身の祈りであると思う。あるがままの自分を全て神の前に献げ、それを神が喜んで受け取ってくださる、それが礼拝の場である。
私たちの全ては、神から与えられたもの、預かっているものである。体であり、時間、生活、可能性全ては神からの預かり物であり、私たちは神からの与えられた全てを神の栄光を現す為に徹底的に用いて神にお返しする、それが私たち人生の使命、ミッション、正に命の使い方である。マタイによる福音書
25章にあるタラントンのたとえはこのことをイエスが教えられたものである。神は一人子イエスをこの世に送り、全てを私たちのために捧げられた。十字架の死はイエスが丸ごと私たちのために生けるいけにえとなられたことを示している。
「自分の体を」と言うことに注目したい。これは自分の今持っている一番良いもの、ということではなく、今生きている、在るがままの自分であり、良い点も悪い点もある自分をそのまま献げることである。私たちは、生きている時も死ぬ時も、神に喜ばれる、神の栄光を現すためにありのままの自分の全てを神に献げる歩みを歩んで生きたい。
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