8月1日  「本当の賢さ」 マタイによる福音書251-13

      東方敬信牧師

「十人のおとめのたとえ」

 

1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。」

2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。

3   愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。

4   賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。

5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。

6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。

7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。

8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』

9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません』それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。

10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。

11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。

12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。

13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

 本日の聖書の物語のように、パレスチナでは日中の暑さを避けるため夜に結婚式が行われた。このことは非常に象徴的で、夜であってもしっかり見つめている必要がある。私達の生きている現代は、ビジョン・希望を失い、見通しの効かない時代であり、暗闇をしっかり見つめる信仰が必須である。

 物語では、ともし火をかかげるおとめは非常に重要な役割を演じるが、聖書はこれに信仰者の姿を重ね合わせている。ここでいう「賢さ」とは、高いIQや偏差値を示すのではなく、毎日を漫然と生きるのではなく日常生活の些細な事も本質と結びつけて考えることのできることを示している。賢いおとめは、神様を待ち望み、神様のまなざしの前で今の姿勢をしっかり保って、油(=信仰)をしっかり蓄えて生きているのである。

 本日の聖書の物語は、主イエスの語られた終わりの時の譬え話である。空白に見えるような時代に、神様の前で大切なしるしを見分ける知恵が必要であり、一人一人が祈り、聖書によって養われる生活によって、なすべきことを選択して決断してゆかなければならない。

 婚宴はイエス・キリストが世の中に入ってこられる喜びの時をあらわしている。イエス・キリストは十字架に懸かり、人を赦し、和解のわざをなさった。

 私達は主イエスに罪を赦された者として、互いに赦し合いながら平和を語り合う喜びの中、信仰の故の賢さをもって生活してゆきたい。

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