7月25日  「ただその一点ゆえの自由」 コリントの信徒への手紙T 11017

「一致の勧め」 

 

10 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。

11 わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。

12 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。

13 キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。

14 クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。

15 だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。

16 もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。

17 なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。

多くの問題を抱えていたコリントの教会に対し、パウロは「心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」と教会としての基本を勧告している。

コリントの教会は、多くの伝道者に触れており、それ故に、知らず知らずのうちに派閥が生じ,それぞれが自己主張を持ち、真の対話が出来ない状態にあった。この姿は、初代教会だけの問題ではなく、今の時代の問題でもあり、又、私達の教会の問題として、このような歩みに陥っていないか、しっかり振り返ってみる必要がある。

パウロは更に、「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」そして、「誰があなたがたのために十字架につけられたのですか」と言う二つの真理の言葉を投げかけた。「教会」とは、ギリシャ語で「エクレシア」と言われるが、呼び集められた、即ち、神によって呼び集められた、それが教会である。神によって召し集められた存在が自己主張で隣人に接するならば、神の教会ではなく自分の教会を立てるようなものであり、キリストの体である自分の身を忘れ、神の体を裂く行為だとパウロは言う。「誰があなたがたのために十字架につけられたのですか」の問いに対しては、主イエス・キリストと告白せざるを得ない筈だ。

主イエス・キリストの十字架の出来事によって私達は救われ、信仰を与えられ、生きる力と大きな喜びを与えられた。十字架の出来事というその本質によって、教会が生まれ、教会の体を作るキリスト者としての救いに預かる。全てはこのキリストの一点の源につながれ、自由に賜物を出し合って、自分自身の内から沸き起こる「心も思いも一つにして固く結び合う」姿での歩みとなる。その歩みに、自然とこの身をもってキリストの香りを放ち証し人としての歩みがある。

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