7月11日  「主イエスに生きる」 マルコによる福音書1619-20

 

「天に上げられる」

19 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。

20 一方、弟子たちは出かけていて、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。

[婦人たちは、命じられたことをすべてペトロとその仲間たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン。]

 今朝の御言葉は、私達の歩みに根拠を与える。「主イエス」という言葉を口にする恵み。この言葉はマルコ福音書において1回きりである。大切なものを一番最後に示してマルコ福音書は閉じられている。私達の主人イエスのもとに歩むのが本当の道であると告げている。私達が礼拝の歩みを進めることが出来るのは、主イエスの群れであるためである。主の日に主に導かれ、主の前に集い、主の民となることを毎週新たに赦されているのである。この恵みを新たにして福音書を閉じたい。弟子たちもまた、復活の姿を明らかとされた主に導かれたゆえに大きな働きをなすことが出来たのである。

 主の昇天は、全世界の民の主であることをはっきりと示す。真の正しい権威の開始、御国への道を宣言している。このことを主自らが示してくださったことから弟子たちは変えられていったのである。その喜びは個人ではとどめられない。弱い強いの問題ではなく、源を源として生きたとき、弱さの中でも主が共に働き語る言葉が真実となり、わたしたちを通した言葉が隣人を真に救うことができる。それゆえに「地の塩世の光」とされることが出来るのである。

 誰も経験したことのない死への恐れは、主イエスに導かれる分かち合いのゆえに希望となり、主イエスによってすべてから自由となるのである。こうして全世界の民は主イエスに見つけられ、捕らえられているという告白が、マルコ福音書の最後にあるのである。

 私達に伝道が出来るのは、主が生きておられ、私達を通して語られるからである。そしてその言葉が真実であるゆえに、隣人に与えることができるのである。すべてを良き方へと導かれる主人・イエスに生きたい。

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