6月27日  「主の名を知る恵み」 ローマの信徒への手紙105-13

                    兼子洋介神学生

「万人の救い」

5 モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。

6 しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。

7 また、「『だれが底なしの渕に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。

8 では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。

9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。

10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

11 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。

12 ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての人に同じ主があられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊にお恵みになるからです。

13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

私達、信仰を求める者は、聖日の礼拝において使徒信条を告白している。それは、今日のみ言葉に示されているように「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」と信じるからである。神は独り子イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、十字架の死により私達の罪を償われ、復活により死に勝利されて私達に永遠の命の希望を与えられた。即ち、律法に代わる新たなる救いの約束としてイエス・キリストが与えられた。ユダヤ人とギリシャ人の区別なく、言い換えれば、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」との万人に対して開かれた神からの一方的な救いの恩寵である。

「公に言い表す」ということは、神にたいし主体性を持つことであり、神への応答が求められている。旧約時代の十戒を中心とした律法を守ることが不可能であったごとく、弱さや罪を犯しやすい私達が神にしっかりと応答できるであろうか。

神はイエス・キリストによって御自身を明らかにされ、啓示された。私達はイエス・キリストを主と呼ぶことが許されている。イエス・キリストの名を呼び求めることによって、私達は公に信仰を言い表す(告白する)ことが可能とされる。教会という場で私達が捧げる礼拝の対象が真にここに存在する。

その名を主と呼ぶことが許されたイエス・キリスト,キリストによって生かされている恵みと喜び。

私達はイエス・キリストの証し人として、教会において又、それぞれ遣わされた場において主イエス・キリストの名を呼び求める歩みを続けていきたい。

 

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