6月20日  「新たに始まる神の救いの歴史」 マルコによる福音書169-18

9 イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、先ずマグダラのマリアに御自身を現わされた。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。

10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。

11 しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。

12 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いていく途中、イエスが別の姿で御自身を現わされた。

13 この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。

14 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。

15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。

16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。

17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。

18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

詩人の星野富弘氏は詩「あてはずれ」と言う題の詞の中に真の喜びを見いだし、真の道を見いだしている。あてと言うような想像を超えるその方こそ主イエス・キリストであり、ただ福音として受け入れるのみが主の十字架と復活の事実なのである。

 今朝の聖書の箇所から、「あなたにとって私の復活とは何か」との主の問いかけを心に問わなければならない。

 九節からの箇所は、主の復活を真にうけて、「恐ろしかったからである」との喜びとは思えない婦人達の姿にたたなければ決して真の生命の言葉とはならない。

 今朝の箇所のマグラダのマリヤは復活の事実を受いれ歩んだが、それは主イエスを見たから信じたのでなく、主イエスが訪れて下さった故に信じる事が許された。

 私たちも今、聖書により目にしないイエス・キリストを信じて歩むことができる。これは今生きて歩まれる主イエス・キリストと出会うことが許されている事実に他ならないのである。それゆえ、み言葉は生きた生命の言葉となり、そこに私達は力を見出す。

 信じることが出来ずにいる弟子に主が訪れ信じるものに変えられる。更に主は信じることの出来ない弱い者、不信仰な者に、全世界に行って福音を宣べ伝えなさいと使命を与えられる。その主の命じる言葉は全世界は、主の復活によって既に主の御手にある恵みの宣言である。想像を超えた神の恵みが今世界を包んでいる。恐れず主と共に福音を宣べ伝えたい。

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