6月13日 「神の現実をこの身に受ける」 マルコによる福音書
16章1-8節
1
安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスの油を塗りに行くために香料を買った。2
そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。3
彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。4
ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。5
墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。6
若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。7
さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」8
婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
今朝の箇所はイースターの朝の場面である。マルコは本来、一六章八節までで終わるとされている。その最後は、婦人達がその出来事に驚き、「正気を失い、誰にも言わなかった。それは恐ろしかったからである。」と記される。
婦人達は主が十字架で死を迎えられ悲しみの中、何とか香料だけでもと墓に向かって歩んだが、墓の前には簡単には動かすことの出来ない大きな石が立ちはだかっていた。しかし、不可能と思っていた石が転がされ、悲しみの源である主イエスの遺体はなかったのである。この私達の想像を越えた出来事が今この主の日に礼拝を通して私達にも起っている。主の日に復活の主と出会う事こそが恵まれた真のキリスト者の強さである。
マルコは「恐ろしかったからである」という言葉で福音書を締めくくる。この婦人達の姿は人間が神の歩みと出会う時、その出来事をただ受ける事しか出来ないという神の現実をこの身に受けた者の真の姿を示しているのである。復活された神が今、この礼拝に生きて共におられる。これは教会に約束された力である。復活の主と毎週礼拝において出会う私達は、自分の弱さに気付かされつつも更に御言葉を証するように導かれる。この意味においてこのマルコはその最後復活の主を知らされる事によって本当の意味で、「神の子イエス・キリストの福音の始め」という一章一節の言葉に私達をもう一度立ち戻らす。よってマルコは「終わりなき書簡」なのである。
この恵まれた主の日に私達は主の前に立ち、この復活の恵みを新たに神の現実をこの身に受けて、神と共に復活の主を伝え輝かしていかねばならない。
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