5月9日 「神様と共に生きる喜びと強さ」 マタイによる福音書
11章25-30節
「わたしのもとに来なさい」
25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
26
そうです。父よ、これは御心に適うことでした。27
すべてのことは、父から私に任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。28
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29
私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
教会では、年に一度幼子から大人まで共に礼拝を捧げる。全体礼拝は神の宝同士が神の前に全て集う教会の真の意味を示す姿であり、だからこそ、互いに喜びを新たにされる。
主イエスは、私達が神の宝である事を約束される。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と。
人間には体と同じように心があり共に疲れを覚える。時には心の疲れによって歩みすら止まってしまい、日常の励ましの言葉が届かないこともある。
私達は、決して一人では生きていけない存在である。しかしそれは、この世に神に与えられた命を生きる故に既に皆神と共に歩む恵みの徴である。神が愛した宝だからこそ、神と一緒に今を生きる。従って、人間を本当に立ち上がらせるのは、神を真に見出す事以外にない。その神ご自身の方から招かれるのである。
主は、「私は柔和で謙遜な者だから私の軛を負い、私に学びなさい。そうすればあなた方は安らぎを得られる。」と約束される。主イエスと言う愛である神を学び受け入れる時、自らが安らぎの源を持つことが赦される。それは主イエスの十字架にかけられる程の愛が示しているように神の愛は昔も今もそして未来も輝き我々と共にある故である。そこから離れず歩む時、本当の喜びと強さを持つ事ができる。全体礼拝に集う全ての神の宝が教会から離れず、主の招きの約束を真に受け、神と共に歩む本当の喜びと強さをもって歩み続けて欲しい。
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