5月30日  「永遠の生命に生きる」 マタイによる福音書1621-28

 田所義郎神学生

「イエス,死と復活を予告する」

 

21 このときから、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。

22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。

28 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 今朝の箇所は、マタイ福音書においてひとつの節目であると言える。「このときから」という言葉は計三度記されており、主イエスの宣教の開始を告げる四章一七節、今朝の箇所、ユダが裏切りを決意する26章16節である。

四章一七節以下のときは、ペトロの信仰告白に対するイエスの祝福でしめくくられ、今朝の箇所の直前に当たる。これは「栄光の時」ということができる。

 対して今朝の御言葉、すなわち二番目の「このとき」は、受難を予告したイエスに対してペトロが諌め、それに対してイエスが激しく叱責することから始まる「受難の時」である。しかしこの時から、わたしたちに希望を与える「命」が輝き始めるのである。この「命」は、聖書において「ゾーエー」と記される神の命であり、滅びないものである。

もう一つは「プシュケー」と記されている、人間の限られた命である。ペトロはこのプシュケーを思ってイエスを諌めた。自身の愛情と熱意をもって諌めた。これに対してイエスは滅びゆくプシュケーをはっきりと否定して、そうした命に終わりを告げ、将来への確信をもたらす真の命、「死なない」命、永遠の命を示すのである。

そしてこれこそが教会を他のどんな集団とも区別する決定的な点である。この永遠の命を、苦しみ悲しんでいる人たちに伝えることが、主イエスに従うこととなるのである。

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