5月23日 特別伝道礼拝 「真のチャンピオン」
聖書:ヨハネによる福音書5章2-9節
深井智朗先生
滝野川教会牧師、聖学院大学総合研究所助教授
「ベトザダの池で病人をいやす」
1 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
2 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザダ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。
3 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
5 さて、そこに三十八年間も病気で苦しんでいる人がいた。
6 イエスは、その人が横たわっているのを見、又、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。
ベトザタの池の辺で、主イエスに「良くなりたいか」と問いかけられた38年間病に苦しんでいる病人は「主よ、水が動く時、私を池の中に入れてくれる人がいないのです。」と答えた。「人がいないのです。」わたしを思ってくれる人が誰もいない!という叫びである。
「人がいない」これは現代の豊かさの中に潜む問題をも象徴している。ロマ書でパウロは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」と言っているが、現代社会は、共に喜び、共に泣いてくれる人がいなくなった。現代の若者は、自分たちの居場所がないと言う。これが青少年の犯罪にもつながっている。しかし、居場所がないのではない。本当に受け入れ、理解してくれる人、自分の傍に立っていてくれる人がいないのだ。
大江健三郎は、辞書で「チャンピオン」の意味の中に「ある人のために代わって戦ったり、主義主張のために代わって議論する人」という意味を見つけ、この説明に何かしっくりするものを感じたと「チャンピオンの定義」というエッセイに書いている。自分のためではなく、人のために、その人の傍らに立って、最も辛い戦いを代わって戦い抜く、これが真のチャンピオンである。これがイエス・キリストである。
38年間病に苦しんだベトザタの病人は、この真のチャンピオンが傍にいることに気付いて、床を上げて歩き出した。良くなったのだ。福音とは、この真のチャンピオンが来たことを述べ伝えることだ。礼拝とは、毎日曜日、教会で傍に立っておられる真のチャンピオンを実感することであり、キリスト者とは、真のチャンピオンに出会い、救われた者として、家族、友人そして、多くの隣人に、この真実を証しする者である。