「墓に葬られる」
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既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、43
アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。44
ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。45
そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。46
ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。47
マグダラのマリアとヨセフの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。
本日の聖書の物語は、言うのも憚られる残虐な刑である十字架により息を引き取られた主イエスを、アリマタヤ出身のヨセフが墓に葬る場面である。この主イエスが墓に葬られる場面を、十字架と復活との単なる繋ぎと考えることは大きな誤りである。なぜなら、この場面は主イエスが全き人として死を迎え、全き人として葬られ、陰府にくだり、神の子イエスが私達と変わらない姿で歩んでくださった象徴の出来事であるからである。
キリストの福音にふれながら、信仰を得られない人の多くが主イエスの復活が信じられないという。しかし復活のだけを見ていれば、自分とは関係の無い不思議な出来事と捉えてしまい、復活の出来事が信じられないのは当たり前である。主イエスが人として墓に葬られることにより、主イエスの歩みと私達の歩みが一致して、復活が私達の真の姿と捉えられるようになるのである。
マグダラのマリアたちが失意に沈んだ三日後、復活の喜びは主イエスの墓から伝えられた。神の子が全き人として歩まれた故に、イースター(=あまりにも尊い歩み)が私達のものとされるのである。それにより、死を知り、また告別の時を迎えたとしても、復活の命を確信し、慰められ、希望と喜びに立てるのである。
神の御前に戻り、天の御国に戻る。その歩みを今許され、今示されている恵みを新たにすることにより、主と共に喜び・希望・強さを見出して歩み出してゆきたい。
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