4月4日  「仕える愛のモデル」 ヨハネによる福音書131-15

東方敬信牧師

「弟子の足を洗う」

1 さて、過越際の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。

3   イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、又、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、

4   食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを徒って腰にまとわれた。

5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。

7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。

8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。

9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」

10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えはよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」

11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれてあるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。

13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。

14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。

15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

 

 本日の聖書の物語でイエス・キリストは、ピンと背を伸ばしながら蹲って弟子たちの足を洗った。人間の最も汚い足を洗うということは、心の根にある利己心=「罪」を洗い流すことの象徴であり、神の愛によって人間の罪を解決するのが主イエスの使命であった。

 さらにここで特筆すべきことは、主イエスの愛が上から見下す愛ではなく、低く見上げる愛であるということである。だからこそペテロと同様、弱い存在である私達も主イエスに汚い所を素直に洗っていただいて新たな出発をすることができるのである。

私達人間は弱い存在であるが故に、他人にかっこよいところを見せたり、様々な願望を抱くことにより、他人を押し退けて生きている。しかし、主イエスの深い愛により罪を赦された自分を自覚することにより、私達は自分を押し付けずに他人を受け入れ・配慮する爽やかで謙虚な生き方ができるのである。

主イエスが弟子たちに命じられた「互いに足を洗い合う」こと、つまり互いに赦し合う生き方は、積極的に平和をつくりだすものであり、何と幸いな生き方であろう。

 どんな人にも神が与えてくださった使命があり、苦難を益としてくださる神の愛が貫かれている。そのことを覚えて私達は受難週をしっかりとイエス・キリストを見上げながら歩んでゆきたい。

 

 

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